前 奏
招 詞 レビ記19章18節
賛美歌 新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
賛美歌 新生 27 たたえよあがない主イエス
主の祈り
賛美歌 新生287 主イエスこそわが生命
聖 書 ガラテヤの信徒への手紙5章2~15節
(新共同訳聖書 新約P349)
宣 教 「愛すべき私」 宣教者:富田愛世牧師
【断言】
5月になってガラテヤの信徒への手紙を読み始め、今日で4回目になります。そして、ほっとしたのか、それとも残念なのか、それぞれに思うところがあるでしょうが、今回で終わりになります。
パウロはガラテヤ地方の諸教会に起こった問題、つまり、信仰義認か、行為義認かという問題について、手紙を書いたわけですが、今日の箇所ではっきりと自身の姿勢を言い切っています。2節を見ると「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。」と語ります。
パウロは生まれてから、キリストの福音に出会うまでは、律法主義の世界に生きてきました。そこでは、心の底からの平安や喜びを感じることが出来ませんでした。しかし、キリストの福音に出会い、イエスの信仰によって、律法の奴隷から解放され、自由な信仰を持つことが出来るようになったのです。
2節の続きから3節を見ると、そこには「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。」と語っています。
エルサレムから来たと思われるユダヤ主義者たちは、律法を守る事、割礼を受けることを救いの条件だとしたしました。しかし、割礼が救われるための条件だとするならば、律法全体を守る必要があるのではありませんか。と問うているのです。
しかし、律法を守るということは、人間には不可能なことですし、律法の目的は人間に罪を自覚させることなのですから、守ろうとすること自体が、目的からずれたことなのです。
ガラテヤの信徒たちを惑わしているユダヤ主義者たちは、自分たちは律法を守って、正しい行いをしていると思い込んでいたようですが、それは大きな勘違いだったのです。ただ、信仰には行動が伴うのも事実です。だからこそ、行動することの動機が大切になるのです。
【愛の実践を伴う信仰】
また、この問いかけは、現代のクリスチャンにも共通するものがあります。一部の聖書主義と言いながら、聖書の言葉を道徳的に受け止める人がいます。「聖書にはこう書いてあるから、こうします。とか、何々はしません。」という人です。表面的な字面だけを追って、行動しようとするのですが、そのような言葉に限って、矛盾するような別の言葉が書かれているのです。
同じガラテヤの信徒への手紙3章28節に「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と書かれていて、これを読むと、パウロは民族差別、階級差別、男女差別からの解放を二千年前に語った素晴らしい人だと思います。
ところが、同じパウロがコリントの信徒への手紙一14章33節以下で「聖なる者たちのすべての教会でそうであるように、婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」と矛盾した考えを語っているのです。
ガラテヤの信徒への手紙で男女差別からの解放を語ったパウロが、コリントの信徒への手紙では、女性差別を助長する言葉を語っているのです。現にこの言葉によって、女性が牧師になれない教会が存在します。日本バプテスト連盟も、この点でアメリカの南部バプテストと決別しました。
今日は、聖書の矛盾について考えることがテーマではないので、矛盾があることを確認するだけにして、今日のテーマに戻りたいと思います。ユダヤ主義者たちが主張するように、割礼を受け、律法を守ることによって救われる、つまり、神から義と認められるのだとする、行動を条件とする一つの方向性があります。
しかし、イエスが語った福音は、神の愛、つまり、無償の愛によって救われているから、言葉を変えるなら、神に愛されているからという動機によって、動かされていくという、救いの条件ではなく、救われた結果の行動という事になるのです。
イエスが実践し、パウロが伝えようとしているのは、神によって愛されていることを自覚した者は、その愛によって突き動かされてしまうという事です。そして、愛によって突き動かされた者は、自分を必要としている所へと、運ばれていくというのです。
【自由を得るため】
そうは言っても、ガラテヤの諸教会の現状を見るならば、割礼を受けることと律法を遵守することを強調する「ある人々」によって惑わされているのですから、すぐに福音に立ち返ることは難しいかもしれません。
そのようなガラテヤの信徒たちに向かって、パウロは13節で「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。」と語ります。「召し出された」という事ですから、そこにはガラテヤの信徒たちの行いは関係ないという事です。神によって召し出されているのです。
そして、神がガラテヤの信徒たちを召し出した理由は「自由を得るため」なのです。自由という言葉も定義することの難しい言葉だと思います。
多くの人は、生まれてから、成長していく過程で、思春期と呼ばれる時期を通ります。そして、多くの人は、この思春期に世の不条理に気付き始め、様々な事柄に疑問を抱くようになります。
私が中学生の時、通っていた学校の校則が厳しかったので、かなり反抗的な態度をとっていました。校則とは関係ないのですが、英語の授業の時に自由という事が話題に上りました。私たちが先生に向かって「この学校の校則は厳しすぎて、自由がない」と言うと、その先生は「自由と好き勝手は違います。自由とは決められた範囲の中にあるのです。」と言っていたのです。
当時は、まだ若かったので、何を言っているのか意味が分かりませんでした。しかし、自由という言葉は絶対的な意味を持っている言葉ではなく、相対的なものだと思うのです。何かによって縛り付けられている時、その縛り付けているものから、解放されるという事が自由なのではないかと思うのです。
聖書の中で、パウロが「自由」という言葉を用いる時、それは、罪からの自由であり、律法主義からの自由なのです。
罪という、私たちを神との関係から遠ざけようとする力があり、その力によって縛り付けられているところから解放されることが自由であり、律法主義という、私たちの行動を制限し、心までをも縛り付ける力から解放されることが、ここで語られる自由なのです。
【自分のように】
イエスの信仰によって、神から義と認められた私たちには、このような罪からの自由が与えられているのです。そのことをパウロは13節の後半で「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」と語るのです。つまり、神から与えられた自由を用いて、互いに仕え合うことを勧めているのです。
しかし、愛によって互いに仕え合うという事は、言葉にするのは簡単ですが、いざ実行に移そうとするなら、非常に難しいことだと思います。ですから、その表現方法は、人それぞれ、十人十色で、歓迎できることもあれば、遠慮したいこともあるのではないでしょうか。
パウロは、そのような私たちに向かって14節にあるように「隣人を自分のように愛しなさい」と語るのです。隣人を愛するためには、まず、自分を愛さなければなりませんが、自分を愛さない人がいるのでしょうか。
「自分が嫌いだ」という人がいます。そのような人は自分を愛していないのでしょうか。マザーテレサは「愛の反対は無関心だ」と語りました。憎しみの感情ですら、愛がなければ起こりません。自分のことに無頓着な人はいますが、無関心になることなど、出来るのでしょうか。そう考えると、自分を愛せない人もいないのではないでしょうか。
それでは、パウロがここで「愛によって互いに仕え、隣人を自分のように愛しなさい」と語る真意はどこにあるのでしょうか。この言葉を聞いて、私を含め、多くの人は「自分を愛さなければ」とか「隣人を愛さなければ」とか「互いに仕えなければ」と考えてしまうと思うのです。
そんなことは求められていないのです。もし、「愛さなければ」とか「仕えなければ」と考えるなら、それは、そのような考えの奴隷になっているという事です。パウロの言葉を道徳的な行動規範として受け止めてしまっているという事です。
神の愛を信じ、受け止め、感じることができるならば、私の力や努力によるのではなく、神の愛に促されて、気づいた時には、愛を行っていた、ということなのです。そして、行ったとしても、行わなかったとしても、そんなことを神は問いません。神の計画が為されているという事なのです。
祈 り
賛美歌 新生338 よきおとずれを語り伝え
献 金
頌 栄 新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷
後 奏
2025年5月25日 主日礼拝
投稿日 : 2025年5月25日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー