前 奏
招 詞   ミカ書6章8節
賛美歌   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌   新生 55 わが救い主 主よ
主の祈り
聖歌隊   新生557 幻をわれに
聖 書   フィリピの信徒への手紙2章1~18節
                      (新共同訳聖書 新約P362)
宣 教   「現状維持から変革へ」    宣教者:富田愛世牧師
【変革へ】
 今日はキリスト教の三大祝祭の一つであるペンテコステです。と言っても、あまりピンとこないのが現実だと思います。欧米では特別なプログラムを用意する教会がたくさんありますが、日本の教会ではあまり聞いたことがありません。それでも、この日には炎の色である「赤」や聖霊をイメージする鳩をモチーフにした装飾を用いて、礼拝堂を飾り付ける教会があるようです。
 ペンテコステとは、イースターから50日目の日曜日です。イエスは十字架に架けられ、復活した後40日間弟子たちの前に現われました。そして、天に昇られたと記録されているので、それから10日経った日の出来事なのです。
 使徒言行録2章1節から4節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とあります。
 この出来事によって、弟子たちの宣教活動が始まったので、この日を教会の誕生日と位置付けるようになりました。今年の市川大野教会では「教会感謝デー」と重なるので、さらに意義深い日となったのではないかと思っています。
 さて、今日は聖書教育誌のテーマが「変わることを喜ぼう」となっているので、それに倣って「現状維持から変革へ」というタイトルを付けました。ペンテコステの出来事は、私たちの信仰生活において、とても大切なことを伝えています。
 それは「変わる、変化」という事です。この日、聖霊を受けたことによって弟子たちは変えられました。彼らを縛っていた恐れや不安から解放され、自由に生き生きとイエスのことを語るようになったのです。
 同じように、私たちの信仰生活にも変わる事、変えられることが大切なのです。何故なら、私たちはクリスチャンであると言いながら、心の中には醜い思いや愚かな思いがあるからなのです。それらを悔い改める必要があります。悔い改めとは、方向転換することです。つまり、変わる、変えられるという事が必要なのです。

【少しの愛】
 今日、与えられた聖書の箇所はフィリピの信徒への手紙2章1~18節です。新共同訳聖書には「キリストを模範とせよ」という小見出しが付けられていますように、パウロはフィリピ教会の人たちに向かって、イエスの生き様を思い起こして、教会に集う一人ひとりと接してくださいと勧めているようです。
 そのために、まず2節にあるように「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして」ください。と言って、私たちにひとつになる事を勧めています。
 なぜパウロはこんなことを勧めているのでしょうか。それはきっと、パウロが去った後のフィリピ教会は、みんながバラバラになっていたからではないかと思うのです。みんなが好き勝手に、バラバラになっている状態はよろしくないからひとつになってくださいとお願いしているのです。
 しかし、そんなことを言われても、言うは易し行うは難しで、私たちは性格も生活環境も、まるで違っています。そのような私たちがどうしてひとつになる事ができるのでしょうか。
 無理なことだと思われるかもしれませんが、それは「ひとつになる」という言葉のイメージが違うからではないかと思うのです。「ひとつ」になるという事と「同じ」になるということは違うと思うのです。
 パウロが求めているのは、みんなが同じになることではなく、ひとつになることなのです。そして、ひとつになるためには、共通点がなければなりません。何か共通点があれば、それを元にしてひとつになることが出来るのです。
 その共通点とは、私たちはみんな唯一の神によって創造されたという事なのです。そのことを通して、ひとつになる可能性があるのです。そして、私たちにもひとつになる努力が必要なのです。
 それは1節にあるように「幾らかでも」「キリストによる励まし、愛の慰め」があれば、という事なのです。大雑把に言えば「愛」が必要だというのです。しかし、それは大きな愛でなくても構わないのです。
 最小公倍数的な愛でお互いに愛し合う事なら可能なのかもしれません。愛し合いましょうというと、無理やりみんなのことを好きにならなければならないと勘違いする人がいますが、好きになる必要はありません。気にかければよいのです。
 前回も少しお話しましたが、愛の反対は無関心です。隣り人を好きになるとか、優しくするとか、そんなことは愛の一部分でしかありません。関心をもって接するという事です。例えば、礼拝に来て、誰誰さんがいると確認するだけでいいのです。そこから始まって、次の段階へと進めたなら、それはすごいことだと思うのです。

【へりくだった心】
 3節からは「へりくだる」ことが勧められています。これは必ずしも、自分を小さくすることではありません。「へりくだる」ことと、自分を卑下することを混同してしまう人がいます。自分を卑下する必要はありません。なぜなら、神が最高傑作だと宣言してくださったのが、私たち一人ひとりなのです。
 また、へりくだるために、出しゃばらないように、遠慮や人に対して必要以上に気兼ねしてしまうことがあります。しかし、それらはへりくだることとは違うのではないでしょうか。
 6節から8節を見ると「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」と書かれています。
 イエスはへりくだったお方でした。イエスが福音を語る時、遠慮や気兼ねしていたでしょうか。人々が会話している途中で出しゃばって、話をするという事はなかったと思いますが、語らなければならないことは、しっかりと語っていたのです。
 ここで言われる「へりくだり」とは、神の前における従順さを語っているのです。そして、「互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払」うことなのです。人を自分より優れていると考えるという事は、時々誤解されてしまいます。これは比較することではなく、自分にない良い点を他人が持っていて、他人にない良い点を自分が持っているということを理解することなのです。
 そして、私たちがへりくだるのは、ひとつになるための方法や手段だというだけでなく、そのような姿こそが、イエスに似た姿だからなのです。つまり、私たちがイエスの生き様を、辿っていくなら、へりくだった姿勢となるのです。このイエスにならう時、私たちの中に「へりくだった心」が与えられるのです。

【変革】
 イエスは、ご自分を低く、小さくされました。そして、十字架に架けられて死ぬまで、神の愛の計画のうちを歩まれたのです。この姿がへりくだりと神への従順という事なのです。
 私たちが生きている現代社会において、キリストの生き様というのは、外れくじを引くようなものと感じられるかもしれません。
 教会の正面にある看板に毎月聖句が掲げられていますが、6月の聖句はコリントの信徒への手紙二8章9節です。そこには「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」と書かれています。
 主の貧しさとは何でしょうか。それは価値観の変革なのです。私たちの周りにある価値観は、資本主義経済中心の経済至上主義であり、そのための能力主義や効率主義による成功者が豊かさを象徴し、そこから外れたものを貧しさとしています。
 このような社会の中で、人は幸せを感じることが出来るのでしょうか。より高い能力、効率的な成長、そのようなものが求められる結果として、いつも何かに追いかけられていたり、取り残されたりするのではないかという不安、焦り、強迫観念に囚われてしまうのではないでしょうか。
 この問いに対して、主は貧しくなられたと答えておられるのです。貧しくなられたから、このイエスが「勝利者」となったのです。もちろん、力づくで勝利を手に入れたのではありません。
 イエスの勝利とは、御自分を捨てることによって、最後まで人々を愛し抜かれる愛によって勝利したのです。3節に「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって」とありますが、利己心や虚栄心を追及すると、人と人との関係性が壊れてしまいます。
 私は、愛とは関係性だと思っていますが、この関係性を大切にし、人との出会いや結びつきが神の計画だと受け止めるなら、今とは違う景色が見えてくるのではないでしょうか。

祈 り
賛美歌   新生286 そのみ名を聞くは
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏