前 奏
招 詞 イザヤ書26章3節
賛美歌 新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌 新生437 歌いつつ歩まん
主の祈り
賛美歌 新生479 深い罪に悩む時
聖 書 フィリピの信徒への手紙4章2~9節
(新共同訳聖書 新約P365)
宣 教 「まず、ありがとう」 宣教者:富田愛世牧師
【和解の勧め】
6月になってからフィリピの信徒への手紙を読み始め、今回で最後になります。パウロは手紙を締めくくるにあたって「勧めの言葉」を書き記しています。この2節から9節までの短い箇所から3つのテーマについて見ていきたいと思います。
まず2節から3節ではパウロが二人の女性信徒、エボディアとシンティケに和解を勧める大切な内容が含まれています。一見、単なる人間関係の調整のように見えますが、教会の本質やクリスチャンのあり方が示されています。
この二人は女性であり、フィリピ伝道の初期から教会に加わり、福音宣教を支えた重要な人物でした。使徒言行録16章には、パウロがフィリピで川岸の祈りの場所に集まる婦人たちに語ったことが記されていますが、この二人もその場にいた可能性があります。当時の家父長制という社会で、女性がこのように教会の中で名を記され、重要な役割を担っていたこと自体が非常に特筆すべきことです。
しかし、この二人の間に対立が生じてしまいます。理由や詳細は聖書に記されていませんが、パウロは「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めます。ここで強調されるのは「主において」という言葉です。
それは単なる人間的な一致や妥協、一致団結を意味するものではなく、神の前に立つ者として、同じ神に造られ、愛されている存在であることを互いに認め合うことです。多様な価値観や感じ方を持つ人々が、主にあって一つとされることが求められているのです。
私たちは何かに熱心になるあまり、時として目的と手段が入れ替わり、「何かをすること自体」が目的となってしまうことがあります。しかし、教会の奉仕や活動はあくまでも神の愛への応答であり、最も大切なのは「あなたがここにいる」という存在そのものです。パウロは、和解を勧める際も命令や努力の強要ではなく、主にあって心を一つにするよう促しています。
さらに、パウロは「真実の協力者」に二人を支えてほしいと頼んでいます。この協力者が誰であったかは不明ですが、パウロと共に福音のために働き、「命の書」に名が記されている仲間たちの存在は大きな意味を持っています。彼らは名前が聖書に記されたことで、私たちにとっても信仰の模範として記憶されることとなりました。
二人の女性信徒、そして、真実の協力者、それぞれがフィリピ教会に存在しているという事実が大切であり、何かが出来るとか、何かをしたという評価はあまり意味のないことなのです。
そのような意味で、教会における最大の奉仕は、礼拝に集うことそのものです。礼拝とは、神の愛に応える行為であり、私たちが神に受け入れられ、愛されていることを確認する場です。
たとえ奉仕活動ができなくとも、礼拝に出ることこそが神が最も喜ばれることだと信じます。だからといって、礼拝出席を「出席しなければならないもの」にしてしまったら、元も子もなくなります。
神の愛は、私たちの行いや成果によって変わるものではなく、何ができてもできなくても、変わらず注がれています。この神の愛を土台に、私たちは互いに支え合い、和解し、主にある一致を目指すことが大切なのです。
【喜びの勧め】
次に4節から7節を見ると、そこには喜びなさいという言葉が重ねて語られています。なぜ喜ぶのか?それは主が近いからだというのです。
私たちの生活において、言葉というものは時に誤解を生み、独り歩きしてしまうことがあります。同様に、聖書の言葉も一節だけを切り取ると神の意図とは異なる意味に受け取られてしまう危険があります。
そのため、聖書を読む際は全体の文脈を意識し、神の御心を正しく受け取ろうと努める必要があります。特に「喜びの手紙」と呼ばれるフィリピの信徒への手紙は、全編を通して「主にある喜び」が語られており、そのテーマの下に読むことが求められます。
4節でパウロは「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と語ります。ここで言われている喜びは、単なる感情的な「うれしい」ではなく、イエス・キリストとの出会いによって律法主義から解放された根源的な喜びです。自分が今、キリストによって本当に自由にされているのか、律法主義的な思いに逆戻りしていないかを、私たちは日々問い直す必要があります。
さらに5節では「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」とあります。広い心、つまり寛容な心は、主にある喜びと深く結びついています。
イエスは律法や戒律を押し付けるのではなく、守れなかった人と共にいて励まされました。その生き方に倣うなら、私たちも寛容の心を持たなければならないではなく、気が付くと寛容になっていたと気付かされるのです。
それは私たちの努力によるのではなく、聖霊の働きによって与えられる恵みです。そして「主がすぐ近くにおられる」という言葉は、キリストの再臨を指すと同時に、神が今ここに共におられるインマヌエルの信仰を思い起こさせます。
6節では「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」と勧められています。ここでの「思い煩い」は、まだ起こっていないことをあれこれ心配し悩むことです。私たちは何もせず心配を手放すのではなく、出来る限りのことをし、感謝を込めて神に祈り、委ねることが大切です。信仰とは無責任になることではなく、出来ることを尽くした上で神に委ねる姿勢なのです。
そして7節では「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」と語られます。この平和とは、単なる戦争や争いのない状態ではなく、神が主導権を握り、神の国が実現している状態です。私たちの心と考えはしばしば自己中心になり、壊れやすいものです。
しかし、キリストが共にいてくださり、私たちの心と考えを守ってくださるなら、そこには神の平和、神の国があり、喜びが溢れるのです。こうして私たちは、主にある喜びの中で、感謝と平和に満ちた歩みへと導かれていくのです。
【人として】
最後に8節から9節を見ると、9節の最後は「平和の神があなたがたと共におられます」という言葉で締めくくられています。その前に8節でパウロは、人としての基本的なあり方を勧めています。
4節でパウロは「喜びなさい」を繰り返し語り「主はすぐ近くにおられます」と強調しました。当時の人々はこれを主イエスの再臨のこととして受け止めていましたが、この手紙が書かれてから二千年経った現代において、この言葉をイエスの再臨が近いと受け止めることには無理があります。同じ言葉でも時代や文化によって受け止め方が異なることを私たちは心に留めるべきでしょう。
8節でパウロは「真実なこと、気高いこと、清いこと、愛すべきこと、名誉なこと、徳や称賛に値すること」を心に留めなさいと語ります。これらは特別な宗教的徳目というより、今から二千年前のパレスチナ地域、そして、ローマ帝国の支配下にあったという限定的な社会において良しとされた倫理観です。
「真実なこと」は大げさな真理ではなく「偽りでないこと」、他の徳目も突き詰めた理想ではなく、人間としての良識ある姿勢といえます。パウロはこれらを「心に留めよ」と語りますが、それは言われたことをただ機械的に実行する律法主義ではなく、自分の頭で考え、想像し、感じ取ることを求めているのです。
教会は信仰という名のもとに、人を傷つけてしまうことがあります。しかし、その信仰はイエスの語った福音ではなく、律法主義にすり替わったものかもしれません。イエスの福音は人を生かし、律法主義は時に人を傷つけるのです。バプテスト教会が大切にする信仰とは、自由の中で自ら考え、心で感じ、それを表現するものです。だからこそ、説教を聞き「私はそうは思わない」と感じることもあってよいのです。
9節でパウロは「わたしから学んだこと、受けたこと、聞いたこと、見たことを実行しなさい」と語ります。フィリピの教会はパウロにとって特別な存在であり、彼と共に福音の働きを体験してきました。その中で彼らは、神の力と素晴らしさを実際に見てきたのです。
ですからパウロは単なる命令としてではなく、彼ら自身がその福音の素晴らしさを再び自らの生活で体験してほしいと願っているのです。信仰は知識や評論の対象ではなく、日々の生活の中で生きるものです。実行というと行為だけが強調されがちですが、学び、受け、聞き、見、それを自分で考え、行動に移すという一つひとつの過程が大切です。
最後に「そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます」と語られます。パウロが繰り返し語る「喜び」は単なる楽しい出来事に基づくものではなく、キリストにある根本的な喜びです。それはイエスと出会うことによって律法主義から解放され、自由の中で生きる喜びであり、その根底には平和の神が共にいてくださるという確信があるのです。この神の平和に勝るものはなく、そこに本当の喜びがあるのです。
祈 り
賛美歌 新生409 嬉しきこの日よ
献 金
頌 栄 新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷
後 奏
2025年6月29日 主日礼拝
投稿日 : 2025年6月29日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー