前 奏
招 詞   ローマの信徒への手紙2章11節
賛美歌   新生  1 聖なる 聖なる 聖なるかな
開会の祈り
賛美歌   新生329 全能の神はいかずちも
主の祈り
賛美歌   新生332 川のように
聖 書   申命記10章12~22節
                        (新共同訳聖書 旧約P297)
宣 教   「神への応答」    宣教者:富田愛世牧師
【神の問いかけ】
 今日の聖書は「神があなたに求めておられることは何か」という問いかけで始まっています。この問いは当時のイスラエルに対する問いかけであると同時に、今、この聖書を読んでいる私たちへの問いかけでもあるのです。さらに、この聖書がまとめられてからの何千年という月日、これを読む者たちに向けて、問い続けられたはずです。
 問い続けられていたということは、それくらい大切な問いだったということではないでしょうか。そう考えると、今、私たちが何となく読んでいる一つひとつの言葉には歴史があり、それぞれの時代において、大きな役割を果たしてきたし、これを読む人々に明確な指針を与え続けていたのではないかと思わされます。
 そして、この箇所は問いかけるだけで終わるのではなく、その明確な答えが続いて記録されているのです。その答えというものは、この申命記全体に流れているテーマであり、申命記だけに限らず、創世記から始まるトーラーと呼ばれる律法全体にかかっているのです。
 その答えは、12節の続きから13節にかけて書かれているので、もう一度お読みします。「ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守る」ことなのです。
 主を畏れ、従い、愛し、仕え、戒めと掟を守ることを神は求めているのです。しかし、ここまでで終わってしまうならば、イエスの時代の律法主義者たちが言っていることと同じです。
 律法主義とはどうことでしょうか。それは人を自由にする信仰ではなく、人を縛り付ける信仰なのです。現代におけるカルト宗教と同じになってしまうのです。カルト宗教とは、人を恐怖で縛り付ける宗教だと、私は思っています。「神を信じなければ地獄に堕ちてしまいます」と言って恐怖を植え付け、自分たちの信仰や教会に縛り付けようとするものなのです。
 それは、イエスの語る福音とは正反対な考え方なのです。イエスの福音は人を解放し、自由にするものなのです。

【神が求めること】
 さらに、ここで大切なことは、神が求めているのは、そのように主を畏れ、従い、愛し、仕え、戒めと掟を守ることで終わるのではないという事なのです。そのような人が幸いを得るという事なのです。
 私たち、特に日本人の宗教観の中には、何かを守ることや何かをすることが大切だという感覚があります。そして、何かを守ったり、行ったりする時にも、簡単にできるのでは効果、効力が少ないように思い込み、負担がかかるようなことに意味があるように思ってしまうのです。
 その結果、難行、苦行といった行を行うことによって、願いが叶うと思ってしまうのです。キリスト教においても同じような現象が見られます。一生懸命祈ることは大切です。しかし、一生懸命祈ったから、その祈りが叶えられるのでしょうか。もし、一生懸命祈ったとしても、それが神の計画にないことだったとしたら、叶えられません。反対に、他の人たちからは一所懸命さが足りないと思われるような祈りだったとしても、それが神の計画の中にあれば叶えられるのではないでしょうか。
 神が求めているのは、主を畏れ、従い、愛し、仕え、戒めと掟を守ることだけではなく、イスラエルの幸せなのです。なぜ、神はイスラエルの幸せを求められるのでしょうか。それは、申命記の中で繰り返し語られるように、イスラエルが貧弱な民だったからなのです。
 18節を見ると「寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」と書かれています。イスラエルの民は寄留者だったのです。この寄留者というのは、当時の多くの国において社会の底辺に追いやられた人々のことを示しています。劣等民族としてどこにも受け入れられない人々を意味しているのです。
 前回もお話したように、イスラエルの民は何かが優れているとか、神に喜ばれる民族だったとか、そのようなことはなく、反対に役に立たない民族、厄介者の民族と思われていたのです。
 神の選びというのは、このように人間の常識では選ばれるはずがない、選択肢にも入らないような者を選ぶという、常識破りなものなのではないでしょうか。

【イスラエルの歴史】
 そのようなイスラエルの民が辿ってきた歴史というものを振り返ると、そこには神からの大いなる祝福と恵みが与えられています。しかし、祝福や恵みと同じくらい、苦難の歴史も歩んでいることに気付かされるのです。
 それでは、もう一度振り返ってみたと思います。「またか」と思われるかもしれませんが、大切なことなので、繰り返し、見ていきたいと思います。
 初めに創世記11章27節から見ていくと、アブラハムの父であるテラの系図が記録されています。テラはカルデヤのウルを出て、カナン地方に向かい、途中のハランという所まで来て、そこにとどまったと記録されています。
 このハランで神はアブラハムに対して「生まれ故郷、父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」と語り、アブラハムは行く先も分からず、ただ主の声に聴き従い旅立ったのです。この時アブラハムは75歳だったと記録されています。
 この旅の中で、危険な目にあう事もありましたが、神から「あなたの子孫は天の星のようになる」という祝福の言葉を受け、それを信じて、神から義と認められるのです。
 カナン地方に入ってからも、すぐに定住することなく、天幕に住み転々とし、その途中でイサクという子どもが与えられ、このイサクが成人すると、イサクにはエサウとヤコブという双子の子どもが与えられるのです。
 こうしてアブラハム一族は、神の祝福の内を歩み、ヤコブにはイスラエルという新しい名前が与えられました。そして、このヤコブの子であるヨセフによって、エジプトへ移住することとなり、エジプトでの数百年の生活の末、奴隷となってしまい、出エジプトという出来事へとつながっていくのです。
 こうして、エジプトからカナンに戻ってイスラエルの民は、その後王国を建て、他の国からも一目置かれるような繁栄を手にするのですが、やはり、人の繁栄には限りがあり、最終的にはバビロニアに滅ぼされ、イスラエルの民は世界中に散らされてしまうのです。

【イスラエルとは?】
 イスラエルという国家が滅ぼされ、世界中に散らされたことによって、寄留の民となったイスラエルを神はどのように見ていたのでしょうか。
 今のイスラエルの民に対しても、そして、将来のイスラエルの民に対しても、神は「あなたが幸いを得ること」を求め、「心引かれて愛し」「食物と衣服をあたえ」てくださるのです。
 この申命記が書かれた時のイスラエルとは、まぎれもなくパレスチナ地域に住んでいた、ヤハウエ信仰に立つイスラエル人、ユダヤ人でした。そして、最初に言ったように、今、この聖書を読んでいる私たちにとってのイスラエルとは、誰の事なのでしょうか。
 ある方から「ユダヤ人は貧弱ではないですよね」と言われました。確かに現代のユダヤ人は貧弱ではありません。学術的な世界で成功している人の多くはユダヤ人です。ユダヤ人は知的な優秀さで世界から一目置かれているのです。また、経済界を見るならば、フォーブスというアメリカの経済誌があり、そのイスラエル版によると世界の富豪のうち15%がユダヤ人だという事です。
 さらに軍事力でも世界15位で、中東ではトップだという事です。ちなみに日本は8位に位置していました。何が言いたいのかというと、聖書に書かれているイスラエルと現代のイスラエルは全く別物だという事です。
 十戒の「殺すな」という規定も「隣人の家や財産をむさぼるな」という規定も無視していますし、今日の聖書を見るなら「戒めと掟」を守らず「寄留者を愛しなさい」という言葉にも耳を貸していないのが、現代のイスラエルです。
 では、今、この聖書に書かれているイスラエルとは誰なのかと言われるなら、それはマタイによる福音書12章50節でイエスが「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と語るように、イエスの福音によって解放された者がイスラエルなのです。

祈 り
賛美歌   新生661 聞け 主のみ声を
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏