前 奏
招 詞   ローマの信徒への手紙12章11節
賛美歌   新生  2 来れ全能の主
開会の祈り
賛美歌   新生 27 たたえよあがないぬしイエス
主の祈り
賛美歌   新生319 豊かなる恵みを
聖 書   ヨシュア記24章14~15節
                        (新共同訳聖書 旧約P377)
宣 教   「わたしは主に仕える」    宣教者:富田愛世牧師
【祝福を受け】
 今日でヨシュア記が終わりになるので、ヨシュア記の大きなテーマが何かということを、もう一度確認しておきたいと思います。それは、神の言葉に聞き従うという事です。
 しかし、ヨシュア記の字面だけを追って読むならば、神の言葉に聞き従うことによって、イスラエルの民が戦いに明け暮れるという現実を見ることになってしまいます。
 ただ、私は民数記13章でカナンの地を偵察するように神が命じた時、モーセは偵察するだけでなく、カナンに住む人々が強いか弱いか、町に城壁があるかないかを調べさせたという事で、神の意図に反して戦いの準備を始めていたことが、ずっと引っかかっているのです。
 ですから、ヨシュア記の中で、神が先住民を滅ぼし尽くせと語る言葉をそのまま受け入れて良いのかどうか、未だに分かりません。この問いは非常に大きなものですから、すぐに答えを出せるわけがなく、考え続けることが重要だと思っています。ですから、今日は、そのことを踏まえたうえで読んでいきたいと思います。
 今日の箇所は、主が与えてくださると約束したカナンの地を占領し終え、それぞれの部族に対して、嗣業の地が割り当てられたということで、ヨシュアの使命が終わり、ヨシュア自身の命が尽きる時が来たという場面です。
 司会者には14節と15節だけを読んでいただきましたが、出来事としては1節から続いているので、最初から見ていきたいと思います。ヨシュアは自分の死を前に、イスラエルの民に向かって告別の言葉を述べていますが、2節の二重鍵カッコの所から13節までは、主の言葉となっています。
 2節から4節までは、アブラハムから始まる族長の物語を振り返りヤコブ一族がエジプトへ下るところまでが語られています。そして、5節から10節までは奴隷として苦しみの中にいたイスラエルをエジプトから救い出し、荒野の40年と呼ばれる時を過ごしたことが記録されています。この荒野の40年は、苦難の40年と呼ばれることが多いのですが、私は苦難の40年というより、神が共にいてくださることを実感することのできた、恵みの時だったのではないかと思うのです。この時代、神は様々な方法を通してイスラエルを祝福してくださっているのです。
 そして、11節からはヨルダン川を渡り、カナンの地に入る場面から、カナンの地を征服するまでが語られています。ここには注目すべき言葉がいくつか出てきます。
 11節には、先住民たちがイスラエルに対して戦いを挑んだけれど、神は「あなたたちの手に渡した」と語り、応戦したとは書かれていません。12節は、神が敵に対して、恐怖を送り、剣によらず、弓にもよらず、追い払ったと書かれています。そして、13節には、あなたたちは自分で労せず土地を得た。自分で建てたのではない町を与えた。と語られているのです。
 イスラエルは武力に頼らず、約束の地を得ることが出来たと語っているのです。そして、労せずに、町々と畑を得ることが出来たのだと語っているのです。このようなことを言うと「信仰とはそんなに甘いものではない」とお叱りを受けるかもしれませんが、私は武力に頼らず、労せず与えられたと解釈し、信じています。

【わたしとわたしの家】
 さて、ヨシュア記を読む時、ヨシュアという人物は「強く、雄々しくあれ」という言葉によってイメージが作られています。この言葉から受ける印象によって、戦いの先頭に立って、兵士たちを鼓舞し、勇ましく敵を蹴散らし、敵の町々を征服していく将軍のようなイメージを受けるのです。
 そのようなヨシュアが死ぬ前に、どうしても全イスラエルに知っておいてもらいたいことがあったのです。それは武力によらず、約束の地、カナンの地が神によって与えられたのだということだったのではないでしょうか。
 主の言葉を語り終えたヨシュアは14節から自分の言葉で語り始めます。そこで語られたことは、主に仕え、他の神々を取り除くことなのです。
 十戒を見るならば、第一戒は「わたしの他に神があってはならない」という事です。ヨシュアが語ろうとしているのは、十戒の第一戒に語られているように、イスラエルをエジプトの奴隷の家から導き出した神以外の神に仕えるようなことがあってはならないという事なのです。
 ヨシュアは民に向かって、主に仕え、他の神々を取り除くように勧めました。しかし、当時の社会制度を考えるならば、権力者が命じ、民は無条件にそれに従うというのが常識だったと思います。ところが、ヨシュアは権力者が行なうような方法ではなく、一人ひとりに選択をさせたのです。
 この言葉を聞いたイスラエルの民はどう感じたでしょうか。ある人はアブラハムの時代から続いている神の恵みを感じ「主に仕えます」と答えたでしょうが、もしかすると別の人は、占領した地に元々住んでいた人たちとの生活が丸く収まるように、彼らの神々を信仰する方が得だと考え、他の神々に仕えようと思ったかもしれません。
 様々な考え方があってよいと思うのです。そして、ヨシュアも様々な考え方があることを理解し、もしかすると誰も主に仕えなくなる可能性もあると覚悟していたのではないかと思うのです。そのような覚悟があったからこそ、誰も主に仕えなくても「わたしとわたしの家は主に仕える」と自らの信仰を告白し、人々にも決断を迫ったのではないでしょうか。

【仕える】
 ところで、この箇所を読んでいて、いくつか気になることがありますが、その一つに「信じる」という言葉が出てこないのは何故なのだろうと思ったのです。2節を見ると、アブラハムの父テラは「他の神々を拝んでいた」と記録され、ここには「信じた」という言葉こそ出てきませんが、信じていたのだろうと思います。
 次に信仰に関係する言葉が出てくるのは、14節になって「仕える」という言葉が出てきます。ヨシュアは主に「仕える」という言葉を「信じる」の代わりに使っているように思えるのです。
 イスラエルの民が主に仕えるのは何故なのかと考えると、それは主の祝福に答えるということではないかと思うのです。初めに語ったように、イスラエルの民はカナンの地を「武力に頼らず、労せず与えられた」のですから「祝福」以外の何ものでもないわけです。そして、それに対する応答が主に仕えるという事なのです。
 この祝福というのは、アブラハムの時代からイスラエルの民が体験し、伝え聞き、見てきたものなのです。そして、その祝福は過去の思い出の中にあるだけのものではなく、今も同じように体験することが出来、目の前にある出来事なのです。
 ただ、人間の愚かさは、祝福の中にいると、それに慣れてしまい、祝福を受けているという事実に気付かなくなってしまうことがあるのです。ですからヨシュアはそれを確認させているのです。
 さらに、ここでは「主を畏れ、真心を込め真実をもって」仕えること、そして他の神々を除き去ることが勧められています。そうするならば、まだ見たことのないような大きな祝福を得ることが出来るのです。

【わたしは?!】
 今、私たちはこの聖書の記事を過去の出来事、昔イスラエルの民に対して神がなさった物語として読むのでしょうか。ヨシュアのように言うならば、過去の出来事として読んでも構わないのです。昔は科学的にも文化的にも未熟だったから信じられたかもしれませんが、科学的に発展した現代では物語、神話として読めば良いと思っても構いません。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。
 つまり、私たちにも、この聖書を通して、神に仕えることと、他の神々を除き去ることが、ひとつのチャレンジとして与えられているのです。
 私たちの生活を振り返ってみるならば、当たり前と思っていても、実は当たり前ではないこと、神の恵みであり、祝福だと思えることが沢山あるはずです。そのような祝福に対する応答として、神に仕えることが求められているのです。
 神に仕えるとは、何か行動を起こす事だけではありません。私たちの中にある、神ではない神々を取り除くことも必要なのです。それらが私たちを支配している時、私たちの心には平安がなくなり、不安や恐れが取りついてしまうのです。
 私たちの生活、肉体、心、魂を支配しているものとは何なのでしょうか。生活を支配するものとして、第一に上げられるのは「物」です。物に支配されていると思いませんか。物がなければ生活できないと思い込んでいるのです。物の代表がお金なのかもしれません。もちろんお金は大切です。しかし、お金に支配される時、私たちは大きな過ちを犯すということを、ニュースやそれぞれの経験から知っているのではないでしょうか。
 肉体や心、魂といったものは明確に区別することが難しいですが、一般的に肉体を支配するものは様々な欲望、欲求と言われています。心を支配するものには、地位や名声といった承認欲求から来るものがあります。魂を支配するものは律法、仏壇、神棚、占いといったものがあります。
 最近では、パワー、スピリチュアル、オーガニックといったキーワードを用いた怪しいものが満ち溢れています。これらは神や宗教ではないと謳っていますが、心や魂を支配するという点については変わりありません。
 これらの神々が私たちの心の中心から降ろされなければ、聖霊なる神が私たちの心の中心につくことは出来ないのです。

祈 り
賛美歌   新生519 信仰こそ旅路を
献 金   
頌 栄   新生672 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏