前 奏
招 詞 ルカによる福音書11章32節
賛美歌 新生 13 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り
賛美歌 新生575 栄えのみ神よ
主の祈り
賛美歌 新生131 イエスのみことばは
聖 書 ヨナ書3章1~10節
(新共同訳聖書 旧約P1447)
宣 教 「方向転換」 宣教者:富田愛世牧師
【悔い改めとは・・・ではない】
数年前から聖書教育の聖書箇所を礼拝のメッセージに用いてきました。そして、10月は4回に分けて、ヨナ書を読むことになっていましたが、特別礼拝が入るので、礼拝メッセージとしては3回しかできないので、バランスを考えて、今日は3章1節から10節までを読むことにしました。
さて、今日、与えられている聖書はヨナ書3章ですが、このテーマは悔い改めという事です。私たちの日常生活の中で、この悔い改めという言葉は、それほど頻繁に語られる言葉ではないと思いますが、初めて聞く言葉でもないと思います。しかし、多くの場合、聖書が伝えようとする意味とは違った意味で使われるように思います。
悔い改めとは何かという事を考える時、反対に「何」ではないという考え方をすると、より印象強く、その意味が入ってくると思うので、今日は最初に「悔い改めは・・・ではない」としてみました。
悔い改めとは何ではないのか。これを調べるために、昔は図書館に行って、関連する本を読みましたが、20年位前にインターネットで検索するという方法が出て来て、非常に便利だなと感じていたのですが、今はAIが調べてくれるようになって、もっと便利に、時間も短縮して調べられるようになりました。
AIにもいろいろな種類があるので、これが正解ということではありませんが、copilotというマイクロソフトのAIアシスタントによると、反省、悔い、改心という3つの言葉が出てきました。
反省とは、 自分の行動を振り返り、改善しようとすることで、悔いるとは、過去の行動を後悔し、心を痛めること。改心するとは、悪い行いを改め、良い方向に向かうこと。と書かれていました。
という事で、悔い改めとは、反省ではありません。また、悔いることでもありません。そして、改心することもまた違うのです。ただ、最後の改心という言葉ですが「かいしん」という音には二つの漢字が当てはめられていて、ここでいう改心は、改める心と書く方の改心で、この漢字の改心は悔い改めとは違うという事です。
【悔い改めとは・・・である】
それでは、悔い改めとは何なのでしょうか。聖書が語る悔い改めには「方向転換」という言葉が用いられています。これはある意味で、一人の人の人生を左右するほどの出来事を意味しているのです。そして、ここに当てはめられる漢字が回る心と書く回心という漢字なのです。
つまり、今まで歩んでいた道が、誤りであったという事を認め、別の正しい道を歩むという事なのです。私は60歳を過ぎていますので、人生の折り返し地点を過ぎました。悔い改めるというのは、この60数年の人生の歩みが、間違った道を歩んでいたと認めて、違う方向に目を向け、そこからもう一度スタートするという事なのです。
私もそうですが、多くの人は自分の誤りを認めることが出来ません。なぜでしょうか。それは、誤りを認めると、自分の生きてきた人生、すべてが否定されるように思えるからです。
しかし、ものごとを大げさに考えすぎると良くないと思います。ある人にとっては、その方向転換が180度かもしれませんが、別の人にとっては30度とか10度くらいかもしれません。
教会に限らず、多くの宗教では、その宗教に入ることによって劇的に人生が変わったという人の経験談を広告塔のように出してきます。確かに劇的な変化は、人に感動を与えるかもしれません。しかし、世の中、そんなにたくさんの人が劇的に変化するわけではありません。多くの人は、ほんの少しの変化なのです。
つまり、誤りを認めることによって、自分の人生が否定されるかもしれないという思いよりも、誤りを認めること自体のほうが、難しいことなのです。
だからこそ、ある時がくれば、勇気を持って認めなければならないのです。臆病風に吹かれ、問題を先送りにする事は簡単な事です。しかし、そこには何の解決もないばかりか、さらに間違った方向へと歩んでしまう危険性もあるのです。
【素直な町ニネベ】
今日の聖書テキストには一つの悔い改めの実例が書かれています。BC8世紀のパレスチナからメソポタミアにかけての出来事ですが、ニネベという町はアッシリアの首都として栄えていました。
そして、聖書の証言によると悪がはびこり、神の前に罪を犯していたという事です。創世記には邪悪な町の代名詞としてソドムの町が滅ぼされた記事が載っています。ソドムの町に神の使いが来た時、何が起こったかというと、人々は「よそ者が来た」と言って大きな恐れを抱き、よそ者を痛めつけ、追い出そうとしたのです。
しかし、ソドムとの違いは、ニネベはヨナの言葉を聞き入れたということです。ニネベの人々にとってヨナという男は、敵国の人間であり、まさしく「よそ者」なのです。もし、皆さんの前に「よそ者」が来て「この町は滅びる」と叫んだとしたら、どのような反応を示すでしょうか。おそらく多くの人は無視するか、または敵意を持って、その「よそ者」を追い出そうとするはずです。
ヨナはニネベの人々にとってはよそ者で、その語る言葉には何の説得力もなかったはずです。しかし、彼らはその言葉を信じました。とても不思議な出来事が起こったわけですが、もしかすると、私たちはニネベの人々を偏見の目で見ていたので、ヨナの言葉を信じたことを不思議と感じるのかもしれません。外面的な言動で判断し、その内面にある素直さに気づいていなかっただけかもしれません。
ヨナの言葉を聞いたニネベの人々は、神に反して歩んでいた歩みを悔い改め、まさに方向転換し、神を見上げる歩みに変えたのです。
神がヨナに告げた言葉は、その罪によって四十日すれば滅びるという事でした。皆さんも年末に町を歩いていて、見たことがあると思いますが、棒の先にスピーカーをつけた人が「神の裁きが・・」などとメッセージを流して歩いています。
彼らは「S」というキリスト教系団体の人たちですが、あまり効果がないどころか、かえって反感をもたれるような事をしているように思えますし、福音の本質とは違うことが語られていると思っています。
確かに私たちの生きている、この世の中は罪に満ちているでしょうし、神はその罪を嘆いているかもしれません。しかし、聖書を通して、さらにイエス・キリストを通して語られた福音は、神がいかにこの世を滅ぼそうとしているかではなく、この世を、そして、私たち一人ひとりを愛しておられるかということなのです。
【神の思い】
悔い改めたニネベに対して、神のくだした裁きは「災いをくだすのをやめる」という事でした。ネタバレになりますが、4章に入るとニネベに災いが下されなかったことに対してヨナが怒りを覚えるという展開になります。
そのようなヨナの気持ち、私はよく分かります。私の中には勧善懲悪という倫理観が植え付けられているからかも知れません。そして、この倫理観の根本には、自分が正しいという思いがあるのです。
また、因果応報的な考え方を持つ人にとっても、納得の行かない結果だと思います。自分の事は棚に上げ「あの邪悪な町が、悪の限りを尽くしている人たちが、神の裁きが迫っている事を知ったために悔い改めたからといって、今までの悪行三昧が帳消しにされ、救われるのは納得がいかない」とつぶやくかもしれません。
しかし、私たちが聖書を読む時、自分の価値観に聖書を当てはめて読んではいけないのです。自分の価値観に当てはめるのではなく、聖書の価値観を読み解いて、聖書の価値観と自分の価値観を照らし合わせ、自分の価値観の誤りに気付かなければならないのです。
自分の価値観の誤りに気付いた時、私たちの取るべき行動は、神に対して「納得いかない」と不満を述べるのではなく、悔い改めることなのです。
聖書の価値観、つまり、神の思いは、ヨナもニネベの町に住む人々も、どちらも尊い、かけがえのないひとりの人間なのです。その生命は大切にされなければならないものなのです。人間の価値観で考えるならば、更生するはずがないと思われるような人を変えるほど、神の愛は大きく、神の哀れみは深いのです。
祈 り
賛美歌 新生455 われに来よと主はいま
献 金
頌 栄 新生672 ものみなたたえよ
祝 祷
後 奏
2025年10月12日 主日礼拝
投稿日 : 2025年10月12日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー