前 奏
招 詞 マタイによる福音書11章28節
賛美歌 新生 13 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り
賛美歌 新生431 いつくしみ深き
主の祈り
賛美歌 新生495 主よみ手もて
聖 書 ヨナ書4章1~11節
(新共同訳聖書 旧約P1447)
宣 教 「愚かな怒り」 宣教者:富田愛世牧師
【怒りの感情】
今日でヨナ書が終わりになります。ヨナという預言者がどのような生涯を送ったのか、聖書は何も語っていませんので分かりませんが、ニネベに対する預言の場面では、波乱万丈の経験をし、その最後は、まるで駄々っ子のような状況だったというのは、とても興味深い聖書独特のユーモアではないかと思います。
今日の箇所で取り上げられる一つのテーマは「怒り」という事ですが、皆さんは怒りという感情について、また、感情という事柄、全般についてどのように考え、感じておられるでしょうか。
教会に限らず、日本の社会全般について言える事ですが、怒りを含めた感情全般に対してわりと否定的に捉える傾向があります。しかし、聖書において語られることは、感情を含めた全人的な存在として、私たち人間は神に愛されているということを忘れてはいけないのです。
心理学的に怒りという事を捉えるならば、怒りとは何らかの不平、不満に対する感情的な反応であり、精神的な防衛行動だと言われています。感情的な反応ですから、これを抑えようとするならば、当然の事として、どこかに無理がかかるのです。
さらに、精神的な防衛行動と言われるのは、何らかの感情が傷つくのを防ぐために、怒りという感情が表面的に表れるというのです。つまり、この怒りを自分で押さえ込もうとすると、精神的に不安定になってしまうという事です。
さらに怒りの感情を押さえ込んでばかりいると、その思いがどんどん膨らんで、相手に対する憎しみに変わると言われます。最近の犯罪の例を見るとよく分かることだと思いますが、ほとんどの犯人は普段そんなことするように見えない人です。怒りの感情が溜まりに溜まって、何かの拍子に爆発し、取り返しのつかない行動に出てしまうのだと思います。
また、怒りは感情の蓋と呼ばれ、その下に本当の感情が隠れているそうです。「解ってくれない」「助けてくれない」「愛してくれない」と感じた時、私たちは不満がたまったり、攻撃的になったりして、怒ってしまいます。逆に言うと「解ってほしい」「助けてほしい」「愛してほしい」と素直にお願いできない時「言わなくても解るでしょう、あなた全然私の気持ちを解ってくれていない」と怒ってしまうのです。
「解ってくれない」「助けてくれない」「愛してくれない」時というのは、どんな気持ちになるのでしょうか?解ってほしい人に解ってもらえない、助けてほしい人に助けてもらえない、愛してほしい人に愛してもらえない、そんな時は悲しい気持ちや寂しい気持ち、になると思いませんか?実は、怒りという感情の下には、悲しみと、寂しさという感情が隠れているということなのだそうです。
【感情の解放】
このように心理学的にも精神衛生的にも怒りを押さえ込むのは健康的ではないと言われていますが、私たちは怒りの感情を表現するとき、周りの人を不快にしてしまうので、その感情を押さえ込もうとします。そして、それが大人の行動だと刷り込まれているのです。
また、多くの宗教や社会倫理は怒ることを肯定的に捉えていません。特に宗教的禁欲主義に走ると、怒らないことが美徳のように語られ、一面的な感情だけを義とする、カルト的な宗教に傾く危険性を持っています。
精神修養団体として一番大きな勢力を持っている団体がありますが、そこは神や本尊を祀ってはいないので、宗教団体とは名乗っていませんが、実質的には宗教団体そのもので毎朝5つの誓約をするそうです。その一つに「今日一日 腹を立てず 不足の思いをいたしません」というのがあるのです。いかにもという感じがします。
キリスト教会においてもパウロ書簡には怒りを否定する言葉がたくさん出てきます。ある教会では、それを忠実に守り怒ることをしないで、いつも喜び感謝しましょうと勧めています。もちろん、それは正しい事ですし、そう出来るならば素晴らしいと思います。
でも、そうなれるのでしょうか。そういった教会に行くと、みんなニコニコして「感謝します」と言って握手したりします。悪い事ではありませんが、私にはチョッと空々しく感じることもあるのです。
喜びや感謝の感情は良いものなので表してもいいが、怒りは悪い感情なので表すべきでないという考え方があるようです。しかし、感情に良い悪いなどあるのでしょうか。両方あるから感情なのです。
そして、本来、信仰とは感情を抑圧するものではなく、解放するものなのです。詩篇を読んだことがあるでしょうか。詩篇の内容は、まさしく著者の感情そのものです。多くの詩篇はダビデが書いたと言われていますが、神への感謝、嘆き、怒り、それらの感情が実に豊かに表現されているのが詩篇なのです。
【ヨナの怒り】
少し感情の解放ということが中心になりすぎましたが、だからといって、無秩序に怒りの感情を表現しても良いと言っている訳ではありません。アンガーマネージメントといって、怒りをコントロールするプログラムがあり、とても大切な働きをしています。その中では怒りの矛先が何かということにも注目する必要があるというのです。
怒るべき事柄と怒る必要のない事柄、怒ってはいけない事柄があるわけで、それらを冷静に判断することが重要になってくるのです。
1節でヨナは「激しく怒り」ました。ヨナの怒りは何に対するものだったのでしょうか。いくつかの理由が考えられます。一つは伝統的な考えで、ヨナのプライドが傷つけられたという事です。
ヨナはニネベの人々に向かって「四十日を経たらニネベは滅びる」と語ったのです。しかし、神はニネベの人々が悔い改めたのを見て、滅ぼすことを止めました。ヨナとしては、立場がなくなってしまったように感じたのだと思います。
そして、もう一つの理由は、ニネベが救われたという事に向けられました。敵国の首都であり、悪の代名詞のような町が救われるのは、納得できないことでした。自分たちイスラエルは、何百年も前から忠実に神に従って歩んできたから、救われて当然だし、たくさんの祝福を受けるはずなのです。しかし、昨日今日、チョッと悔い改めただけで救われるなんて、調子が良すぎると思ったのです。
この怒りの気持ちは、私にもよく分かります。私は牧師の家庭に生まれ育ち、物心つく前から礼拝に出席し、忠実に教会生活を守り、今はこうして牧師として神に仕えているわけです。
しかし、ヨナの怒りの下に隠されていたのは、まさにイスラエルの危機的状況であり、ニネベより自分を救って欲しいという本音だったのです。怒っても構いませんが、怒った後、冷静に自分を見つめて、ニネベを救った神に、私も救ってくださいと願えばよかったのです。
【神の救い】
そのようなヨナに対して、神はご自身の気持ちを伝えるために「とうごま」の木を用いました。ここに大切な真理があります。それはイエスの宣教にも通じるのですが、言葉で説明するのではなく、身近なものを通して体験させてくださるという事です。
そして、これは今も私たちの周りに同じように起こっているのではないでしょうか。聖書を通して神の計画を知ると同時に、周りに起こっている様々な現象の中にもメッセージが隠されているのです。
とうごまの木はヨナの思いや働きに関係なく生え、炎天下にさらされているヨナを快適にしてくれました。次の日、同じようにヨナの思いや働きに関係なく枯れたのです。木が枯れたことによってヨナは不快になり、さらにそれだけのことで、死ぬことを願うのです。字面だけを追うと実に愚かな姿に映ります。しかし、まさしく私たちの姿がそこに表されているのではないでしょうか。
生活の全領域を支配されるのは神だけです。ヨナは自分の思い通りにならないことで怒りを覚えました。私たちも祈りの中で「御心が行なわれますように」と祈りながら、自分の思う通りにならないと不平、不満を訴えていないでしょうか。ヨナと同じように、忠実に仕えたのになぜ?私に、私だけに良くしてくれないのかと思ってしまうのです。
ヨナの心を支配していたのは自己中心であり、排他主義でした。この思いは福音とは正反対に位置するものです。イエスは敵を愛せと語り、徹底的にそれを実践されました。そこに救いを見る、と同時に躓くのです。それが現実を生きる私たちの姿なのです。
ヨナ書を読むとき、神に反抗し、神が敵に対して祝福される姿を見て怒りをあらわにする、こんなヨナを非難することができるでしょうか。それともヨナの姿を鏡に映る自分の姿として見るでしょうか。
祈 り
賛美歌 新生504 まごころもて
献 金
頌 栄 新生672 ものみなたたえよ
祝 祷
後 奏
2025年10月26日 主日礼拝
投稿日 : 2025年10月26日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー
