前 奏
招 詞   ローマの信徒への手紙9章4節
賛美歌   新生 21 栄光と賛美を
開会の祈り
賛美歌   新生105 くしき主の光
主の祈り
賛美歌   新生445 心静め語れ主と
聖 書   アモス書9章11~15節
                        (新共同訳聖書 旧約P1441)
宣 教  「イスラエルの回復」    宣教者:富田愛世牧師
【裁きの中の希望】
 アモス書は、ヘブライ語聖書の中でも特に厳しい神の言葉が語られている預言書です。預言者アモスは、南ユダ王国の人でしたが、神によって北イスラエル王国に遣わされました。彼が活動したのはBC8世紀、ヤロブアム二世の時代です。
 この時代、イスラエルは政治的にも経済的にも非常に繁栄していました。国は豊かになり、外敵の脅威もほとんどなく、人々は安定した生活を送っていました。しかし、その繁栄の裏で、社会の中には深い不正と腐敗が広がっていました。
 貧しい者が搾取され、裁判は賄賂で歪められ、神殿では形ばかりの礼拝が行われていました。人々は「主を礼拝している」と言いながら、その心は神から遠く離れていたのです。アモスはそのような民に対して、「あなたがたは神に選ばれた民であるがゆえに、罪に対する裁きも厳しく下る」と神の裁きを宣告します。
 アモス書の9章の前半まで読むと、そこには希望のかけらも見えません。イスラエルは滅びる、とアモスは繰り返し語ります。神は「あなたがたをふるい分ける」と言われ、もはや逃れることはできないと断言されます。ここまで読めば、アモス書は裁きの書、絶望の書のように見えます。
 ところが、その終わりに突然、神の言葉が一変します。11節を読むと「その日には わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し その破れを修復し、廃虚を復興して 昔の日のように建て直す。」とあります。
 滅びの宣言のあとに、まるで春の光が差し込むように、回復の約束が語られます。神は裁きの神であると同時に、回復の神でもあるのです。神は人を滅ぼすために裁きを語るのではなく、回復のために裁きを語られるのです。今日の箇所は、アモス書のクライマックスであり、神の救いの計画が最も明らかに示される場面なのです。

【その日】
 まず注目したい言葉は、「その日」です。アモス書では何度も「その日」という表現が出てきます。それは単なる暦の上の一日ではなく、「主の日」と呼ばれる、神の主権が完全に現される時を指します。
 「主の日」とは、神の裁きが下る日であると同時に神の救いが現れる日でもあるのです。人間の目には絶望の日のように見えても、神にとっては新しい秩序を生み出す創造の日なのです。創世記の最初の「光あれ」という言葉のように、混乱と闇の中から神の秩序と光が現れる、それが「主の日」です。
 アモスは、イスラエルの人々に「その日が来る」と語りました。彼らが信頼していた富も権力も、すべて神の裁きの前には無力です。どんなに繁栄していても、神との関係が壊れていれば、それは砂上の楼閣にすぎません。神の裁きは、イスラエルが築いた偽りの土台を打ち砕くものでした。
 しかし神は、打ち壊すためだけに来られるのではありません。壊すことによって、もう一度建て直すために来られるのです。人の罪を暴くのは、滅ぼすためではなく、癒すためなのです。神が「その日」になさることは、壊すことと建てること、裁きと回復、その両方なのです。

【主の誠実と約束】
 では、なぜイスラエルは回復されるのでしょうか。それはイスラエルが立派だったからでも、悔い改めたからでもありません。理由はただ一つ、神が誠実だからです。
 サムエル記下7章16節を見ると神はダビデに「あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と約束されました。この約束は、イスラエルの歴史の中心にある神の約束です。人間の側がどれほど裏切っても、神の約束は決して破られません。神の誠実さは、私たちの不誠実さよりも大きいのです。
 アモスが語る「ダビデの倒れた仮庵」という言葉は、ダビデの王国が崩壊した姿を象徴しています。「仮庵」とは、仮の住まい、風に吹かれるテントのような不安定なものです。イスラエルの王国はそのようにもろく崩れました。しかし、神はその倒れた仮庵を「立て直す」と言われるのです。
 神が立て直されるのは、単なる民族的な国家の再建ではありません。神が築かれるのは、神と人との正しい関係、神の支配がすべてに及ぶ霊的な王国です。その約束は、ダビデの子孫として生まれたイエス・キリストによって実現しました。
 イエスはこの地に来られ、「神の国は近づいた」と宣言されました。人の力では回復できなかった神との関係を、十字架と復活によって回復してくださったのです。つまり、アモスが語った「その日」とは、最終的にはイエスによる救いの日を指しているのです。
 神の救いの物語は、裁きで終わらない。滅びの先に、必ず回復がある。それはイスラエルの歴史だけでなく、私たち一人ひとりの人生にも当てはまります。神は、私たちの罪を暴かれます。しかしそれは、恥をかかせるためではなく、そこから立ち上がらせるためです。神は壊すお方であると同時に、建て直すお方なのです。

【祝福の約束】
 13節から15節では、神が回復されたイスラエルにどのような祝福を与えられるかが語られています。
 13節には「耕す者は、刈り入れる者に続き ぶどうを踏む者は、種蒔く者に続く。山々はぶどうの汁を滴らせ すべての丘は溶けて流れる。」とあります。ここには、まるで季節の区切りがなくなるほど、収穫が絶え間なく続く光景が描かれています。地は実り、山はぶどう酒を滴らせ、すべてが命に満ち溢れる、それは、神の祝福があふれる状態です。
 しかし、これは単なる物質的繁栄の約束ではありません。神の祝福とは、心から湧き上がる喜びに満たされることです。アモス書8章で神は、「わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく 水に渇くことでもなく 主の言葉に聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」と語られました。
 キリスト教会では「御言葉の飢饉」という言葉が使われることがあります。それは聖書の語る言葉を聞くことが出来ない心の状態を表しています。けれども回復の時には、その「御言葉の飢饉」も終わります。神が共にいてくださることを実感し、御言葉によって心が潤されるのです。
 私たちの人生にも、霊的な荒れ地のような時期があります。祈っても答えがなく、聖書を読んでも心に響かない、「そう言われても現実は」と言い訳をしたくなる。神が沈黙しているように感じる時です。しかし、神は沈黙の向こうで働いておられます。やがて「その日」、神は再び私たちの心に語りかけ、枯れた地を潤してくださるのです。
 イスラエルが実際にはアッシリアによって滅ぼされたことを考えると、この預言は矛盾しているように思えるかもしれません。しかし、神の約束は時を超えて成就します。イスラエルは一度滅びても、後に帰還を果たし、さらにその先にはキリストによる救いの回復がありました。神の約束は遅れることがあっても、決して破られないのです。
 アモス書の終わりは、神の「ラストチャンス」の呼びかけでもあります。神はイスラエルを滅ぼすことを望まれたのではありません。むしろ、回復を願っておられたのです。何度も裏切られながら、神は忍耐をもって待っておられました。
 そしてこの神の姿勢は、今も変わっていません。私たち一人ひとりも、神に背を向け、自分の力で生きようとする時があります。神を知りながらも、日々の忙しさの中で、御言葉を忘れ、祈りを後回しにしてしまう。けれども、神は諦めておられません。あなたが神のもとに立ち返るのを、今日も待っておられるのです。
 神はあなたの人生を立て直し、倒れた仮庵を再び建てようとしておられます。「その日」は遠い未来の預言ではありません。それは、私たちが今日この瞬間、神のもとに立ち返る時なのです。罪の中で倒れている私たちに、神は語られるのです。
「その日、わたしは立て直す」と。

祈 り
賛美歌   新生456 恵み深きみ声もて
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏