前 奏
招 詞 使徒言行録2章16節
賛美歌 新生 8 主の呼びかけに
開会の祈り
賛美歌 新生151 わが心は あまつ神を
主の祈り
賛美歌 新生184 マリアより生まれたも
聖 書 ヨエル書3章1~5節
(新共同訳聖書 旧約P1425)
宣 教 「解き放たれる風」 宣教者:富田愛世牧師
【その後】
先週からヨエル書を読み始めていますが、マイナーな預言書なので意識して読むことの少ない書物だと思います。ところが、今日読んだ3章の言葉は聞き覚えのある言葉ではないかと思うのです。
特に1節の後半「あなたたちの息子や娘は預言し 老人は夢を見、若者は幻を見る」という言葉は、どこに書かれているかと問われると答えにくいかもしれませんが、多くの人は聞いたことのある言葉だと思います。
そして、多くの人はヨエル書を通して、この言葉を聞いたことがあるというより、新約聖書に引用されている預言の言葉として耳にしたことの方が多いのではないかと思います。
使徒言行録2章のペンテコステの出来事の箇所にペトロの説教が記録されています。16節から読むと「これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る』」とあるのです。
ペトロの説教に引用され、この預言が成就したことが証明されましたが、それだけでなく、ここには神の慈しみの大きさというものが語られているのです。そして、この「すべての人にわが霊を注ぐ」ための前提があるというのです。
なぜなら、3章1節は「その後」という言葉で始まっているからです。その後とは、どんな出来事の後なのでしょうか。それはヨエル書の中で繰り返し語られている「主に立ち帰れ」ということなのです。
ヨエルを通して「立ち帰れ」という呼びかけが続いた後に神は「すべての人にわが霊を注ぐ」というのです。ということは、イスラエルの民は、神の元に「立ち帰った」のでしょうか。一時的には、そういう素振りを見せたかもしれません。しかし、歴史を見るならば、立ち帰ってはいなかったようなのです。
イスラエルはヨエルを通した神からの呼びかけに答えず「立ち帰る」ことをしなかったにもかかわらず、神は一方的に祝福を与え、恵みを与えられるのです。
【主の償い】
この言葉だけでも、神の憐れみ深さを感じ取ることが出来るのですが、その前に2章25節で「わたしは償う」と語るのです。
私たちの常識で考えるなら「償う」という言葉を使う時の状況というのは、私が他人に対して、迷惑をかけたり、損害を与えたりした時に使うと思うのです。つまり自分が加害者になった時の責任の取り方の一つなのです。
典型的な使い方として、罪や過ちを犯した時に「自分の犯した罪を償う」とか「過去の過ちを償いたい」と使うわけです。また、相手に与えた損害に対して「損害を償う」というように使うわけです。
そうなると2章25節を読むと神は「わたしがお前たちに送った大軍 すなわち、かみ食らういなご 移住するいなご、若いいなご 食い荒らすいなごの 食い荒らした幾年もの損害をわたしは償う。」となっているので、神が下した裁きが間違っていたので、イスラエルの民に損害を与えてしまった。だから償うという事になってしまいます。
しかし、イスラエルにイナゴの災害が訪れたのは、イスラエルが神に逆らったからではなかったでしょうか。イスラエルの罪に対する神の裁きだったのです。また、預言者ヨエルは「神に立ち帰れ」と叫んだにもかかわらず、神に立ち帰らなかったのはイスラエルだったはずです。
人間社会では、罪を犯した者は、法律によって裁かれ、その罪を犯した人がいくら傷ついたとしても補償はありません。しかし、神はご自身の裁きによって傷つき苦しんでいる人がいるならば、その人たちに対して、償う必要が全くないにもかかわらず「償おう」と語ってくださるのです。
一体どういうことなのでしょうか。完全に私たちの常識を超えた、神の常識が働いているとしか言いようのないことが起こっているのです。
【その日】
神は「立ち帰れ」と呼びかけたにもかかわらず、立ち帰らなかった民に対して、償う必要がないにもかかわらず、償うと約束し、その続きとして「すべての人にわが霊を注ぐ」と約束されるのです。
霊を注がれることによって、人々は「預言」し、老人は夢を見、若者は幻を見るようになるというのです。預言とは、神からの言葉を預かり、語ることです。限られた者だけが、特権的に神の言葉を語るのではなく、すべての人が語れるようになるのです。
そして、老人は先の短い者ではなく、夢見る者に変えられるというのです。私も還暦を過ぎ、人生下り坂になっているので、寝ている時の夢は見ますが、将来に対しての夢など語れなくなっています。しかし、聖書は神の霊が注がれることによって「夢」を見ることが出来ると約束してくれるのです。
さらに、若者は大きな幻を描くことが出来るようになるというのです。どうでしょうか。皆さん、想像して見てください。若者たちが大きな幻を描いて、その幻に向かって歩み出し、老人も夢を見ることが出来るようになって、その夢に向かって進んでいくのです。それこそ、夢のような話ではないかと思うのです。
続く2節からを見ると「その日」の出来事が続いています。2節では「奴隷」にも神の霊が注がれるというのですから、すべての人の範囲がさらに広げられています。そして、3節以降は、最後の審判の日を思わせ、多くの苦しみや試練が与えられるというのです。
ただ、愚かな人間は、このような試練を受けなければ神に立ち帰ることが出来ないのかも知れません。自分の力ではどうにもしようがなくなるという経験をしなければ、神に立ち帰ることが出来ないくらい愚かなのかも知れません。
歴史を見るならば、イスラエルの民はバビロンへの捕囚、そして、このヨエル書にあるようなイナゴの災害を通さなければ、主からの呼びかけに耳を傾けることが出来なかったのかも知れません。
【礼拝から】
しかし、5節を見ると、試練の中にあって、絶望状態になったとしても、ラストチャンスとして、神の救いの手が差し伸べられていることに気付くことが出来るのです。それは「主の御名を呼ぶ者は皆、救われる」という約束です。
5節の後半には「シオンの山、エルサレムには逃れ場があり 主が呼ばれる残りの者はそこにいる」とあります。つまり、試練にあっても、逃れ場にいて、試練にあっていなくても「主の御名を呼ぶ者」は救われるのです。
それでは「主の御名を呼ぶ者」とは、どのような者たちなのでしょうか。それは礼拝者を指しているのではないでしょうか。神は礼拝者を喜ばれるのです。
先ほど、このヨエル書の預言の言葉は使徒言行録2章で引用されていると言いました。使徒言行録2章はペンテコステの出来事が記されている箇所です。その時、イエスの弟子たちは一同に集まっていました。それはどういうことでしょう。みんなが集まり、イエスの思い出話をし、食事をし、祈っていたのだと思います。
それは礼拝していたという事なのです。礼拝者が集まっていたところに、神の霊が注がれたのです。そして、神の霊が注がれるという事は過去の出来事ではなく、今も注がれ続けているのではないでしょうか。
私たちは礼拝の中で神と出会い、神の霊を受けるのです。そして、主の名を呼ぶ者は救われるのです。救いとは何でしょうか。それは、私にとって、あなたにとって、今一番必要なものなのです。ある人には慰め、ある人には勇気、ある人には希望、ある人には平安、ある人には癒し、一人ひとりが神の前に求めるものに対して、神は答えを与えてくださると約束されるのです。
祈 り
賛美歌 新生344 聖なるみ霊よ
献 金
頌 栄 新生673 救い主 み子と
祝 祷
後 奏
2025年11月30日 主日礼拝
投稿日 : 2025年11月30日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー
