前 奏
招 詞 イザヤ書9章1節
賛美歌 新生 8 主の呼びかけに
開会の祈り
賛美歌 新生153 エッサイの根より
主の祈り
賛美歌 新生176 主は豊かであったのに
聖 書 ルカによる福音書1章26~38節
(新共同訳聖書 新約P100)
宣 教 「恐れることはない」 宣教者:富田愛世牧師
【不思議な出来事】
イエス誕生の物語を見ていく時、そこには多くの不思議があります。その一つはマリアが選ばれたという事実です。なぜ、名もない一人の若いマリアが選ばれたのでしょうか。聖書は、その理由を詳しく説明してはいません。
私たちはマリアについて「特別に清い人だったからではないか」とか「強い信仰を持っていたからだろう」と想像しますが、それはただの想像なのか、もしくは願望なのかもしれません。最終的には、「なぜマリアだったのか」という問いは、神のみぞ知ることとして残されているのです。
しかし、「選ばれた」と聞くと、私たちは少しうらやましく感じるかもしれません。神に選ばれるなどと考えると少し誇らしく感じるかもしれません。しかし、実際にその立場に置かれたマリアにとっては、決して誇らしいことではありませんでした。未婚のまま身ごもるという現実は、当時の社会では大きなスキャンダルであり、婚約者ヨセフとの関係も、家族との関係も、地域の人々の視線も。今までの関係性や信用が一気に壊れてしまうかも知れなかったのです。
天使がマリアに現れ「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げた時、マリアは「ひどく戸惑った」と聖書にあります。マリアの心の中には言い表せないほどの恐れが湧き上がったはずです。
自分の将来はどうなるのか。ヨセフは信じてくれるのか。周りの人は何と言うだろうか。自分は本当にそのような大きな役目を担うことができるのか。一瞬の内に次々と不安が押し寄せてきたはずです。
私たちは「神に選ばれる」ということを、時に栄誉や成功と結びつけて考えますが、マリアの姿は、そのような安易な理解を崩してしまいます。神に選ばれるということは、多くの場合、自分の計画や安心が揺さぶられ、自分の力では支えきれないような重さを引き受けることでもあります。マリアは、理解しきれない神の計画の中に巻き込まれ、説明のつかない不安と恐れをいだいたはずです。
【マリアの恐れ】
マリアの心の中には、整理のつかないくらいの恐れと不安がぐるぐると巡っていたと思います。これは私の想像ですが、大きく3つの恐れがあったと思うのです。
第一は、若い女性がいきなり「あなたは身ごもって母になります」と告げられるのですから、恐れがあって当然だと思います。しかもそれは、普通の意味での「母になります」ではなく、「あなたの産む子はいと高き方の子と呼ばれる」と言われるような、特別な存在の母になるという宣言でした。
結婚して夫との生活を始め、やがて子どもが与えられるだろうと、心の準備を整えていく時間があったなら、少しは心構えもできたかもしれません。しかしマリアには、そのような準備期間もなく、突然天使から宣言されたのです。「こんな急に言われても、私に務まるはずがない」「自分の人生は一体どうなってしまうのだろう」と、戸惑いと恐れで胸がいっぱいになったはずなのです。
私たちも、自分の計画や理解を超えた出来事が突然降りかかるとき、大きな不安を覚えます。特に日本人は予定調和と呼ばれるものに安心感を覚えることが多いので、それが崩される時、大きな戸惑いを覚えるのです。
進路の変更、家族の事情、病気や事故、思いがけない任務や責任…。そのどれも、「心の準備がないまま突然告げられる」という点で、マリアが経験した戸惑いとどこか重なっているかもしれません。マリアの恐れは、信仰とは関係なく、人としてごく自然な反応だったのです。
第二に、ヨセフとの関係がどうなるのかという恐れもありました。マリアはヨセフと婚約していましたが、当時の婚約は、現代の「婚約」よりもずっと重い意味を持つものでした。ほとんど「すでに夫婦とみなされる」ような、法的にも社会的にも強い拘束力を持った関係です。
その中で、マリアが夫からではない子どもを身ごもったと知られれば、それは裏切りと不貞のしるしと受け取られても仕方ありません。マタイによる福音書1章19節には、ヨセフの思いとして「ひそかに彼女と縁を切ろうと決心した」と記されています。ヨセフは正しい人だったので、このような決断をしました。ヨセフの正しさについては、また別の機会にお話ししたいと思いますが、それくらい大きな問題だったのです。
マリアは、天使から告げられた時点で、このことを薄々分かっていたはずです。「ヨセフは何と言うだろう」「信じてくれるだろうか」「これを説明することはできるのだろうか」。愛する人との関係が壊れてしまうかもしれないという恐れは、彼女の心に重くのしかかったと思います。
神の計画がどれほど崇高であっても、人間としてのマリアの目には、ヨセフとの関係が壊れてしまうという不安と恐れの方が、はるかに大きく、のしかかっていたのです。マリアの心の中には、神の選びを拒否したいという思いも、当然の事としてあったと思うのです。
第三は、世間の目です。ユダヤ教社会において、未婚の女性が身ごもるという事は許されないことでした。それは「罪のしるし」として、本人だけでなく家族全体の存在価値を否定するほどのものだったと考えられます。
最悪の場合、律法に基づいた厳しい罰を受けなければなりませんでした。もし、不貞の罪と見なされたならば、石打の刑に処せられたかもしれませんし、家族も共同体から排除される可能性もありました。現代的に言えば、誹謗、中傷の嵐の中で、好奇の目にさらされ、差別的な扱いを受けることも覚悟しなければなりませんでした。
この三つの恐れ「未来への漠然とした不安、ヨセフとの関係が壊れるかもしれない恐れ、そして世間の冷たい視線への恐れ」は、決して特別なものではありません。私たちも同じような恐れを抱きながら生きています。自分の将来がどうなるか分からない恐れ。大切な人との関係が壊れるのではないかという恐れ。人からどう見られているか、評価や噂を気にしてしまう恐れ。マリアの物語は2千年前の昔話ではなく、今を生きる私たちの心の姿をも映し出しています。
それでもマリアは、恐れの中で天使の言葉を聞き、「お言葉どおり、この身になりますように」と答えました。恐れが消え去ったから従えたのではなく、恐れを抱えたままで、なお神を信頼して一歩を踏み出したのです。神は、そんなマリアの弱さも揺れ動く心も知ったうえで、彼女を選び、支え続けられました。私たちが恐れを覚える時にも、神はその恐れを責めるのではなく、その中に共にいてくださるお方であることを、マリアの姿は静かに語っているのではないでしょうか。
【恐れから平安へ】
マリアの心を動かした天使の言葉、それは「神にはできないことは何一つない」という宣言だったのではないでしょうか。この一言は、状況説明というよりも、マリアの心に向けられた「約束」の言葉でした。マリアの目に映る現実は何ひとつ変わっていませんが、その現実を貫いて働かれる神の力と誠実さに目を向けさせる言葉だったのです。
さらに天使は、その言葉が絵空事ではないことを示すために、具体的な証拠を示します。それが、マリアの親戚エリサベトの身に起こった奇跡でした。子どもを授かることがないまま年老いていたエリサベトが、今や身ごもっているのです。それは、人間には不可能と思われたところに、明確に神が働かれたしるしでした。マリアは、神は本当に不可能を可能にされるお方であることを、身近な人の出来事を通して知らされたのです。
しかし、どれほど証拠を示されても、最終的な決断を下すのはマリア自身です。神はマリアを無理やり従わせることはなさいません。天使の言葉を信じて受け入れるか、それとも恐れに飲み込まれて逃げていくのか、その選びの前にマリアは一人で立たされていました。
そのとき、マリアを一歩踏み出させたのは、状況の明るさでも安全さでもなく、神への信仰でした。「自分には理解できなくても、この神さまになら委ねてよい」という信頼が、マリアの心を静かに、しかし確かに動かしたのです。
私たちにとっても同じです。神に信頼を置く時、私たちの周りの状況がすぐに変わるとは限りません。問題が消えるわけでも、リスクが全くなくなるわけでもありません。それでも、全能の神に視線を向ける時、心の内側から少しずつ変化が起こります。「無理だ」としか思えなかったところに、一歩踏み出す勇気が与えられ「できるはずがない」と諦めていたところに「それでも、神がおられるなら」という決心が与えられます。信仰とは、まさにそのようにして、私たちの心を動かし、決心へと導く力なのです。
祈 り
賛美歌 新生152 あがめます主を
主の晩餐
献 金
頌 栄 新生673 救い主 み子と
祝 祷
後 奏
2025年12月7日 主日礼拝 アドベント第二
投稿日 : 2025年12月7日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー
