前 奏
招 詞 イザヤ書40章3節
賛美歌 新生 3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
賛美歌 新生 70 すべしらす神よ
主の祈り
賛美歌 新生213 われらに伝えよ
聖 書 マルコによる福音書1章1~15節
(新共同訳聖書 新約P61)
宣 教 「イエスってだれ?」 宣教者:富田愛世牧師
【だれを礼拝するのか】
皆さん、あけましておめでとうございます。元旦礼拝に来られた方には二度目の挨拶になってしまいますが、1月7日までが松の内ですから、一般常識として、この期間は、この挨拶が正式なものだと思いますので、二回目の方もお許し願いたいと思います。
昨年は1月から4月までマタイによる福音書を読んできましたが、今年は1月から3月までマルコによる福音書を読むことになっています。マルコによる福音書は2020年から2021年にかけて1年半続けて読んできましたので「またか」と思われることがあるかも知れませんが、それでも新たな発見があるかも知れませんので、ご一緒に読んでいきたいと思っています。
聖書教育誌では2025年度のテーマが「キリストを証しするために」となっていますから、マルコによる福音書を読む時の、ひとつのテーマとして「礼拝」という事にポイントを当ててみたいと思っています。
その中で、私たちは誰を礼拝するのか? なぜ礼拝するのか? そしてどのように礼拝するのか? という3点を視野に入れながら聖書を読んでいきたいと考えています。
教会の中では自明のこととなっていますが、改めて、私たちが礼拝するのは誰に対してでしょうか。神ですか?もちろん、その通り私たちは神を礼拝するのです。これはイエスが誕生する前から、ユダヤ教の時代からずっと続いてきた事柄です。
ヘブライ語の聖書を読むならば、ある時は厳粛に神の前に礼拝を捧げる姿が描かれていますが、同時に他の人からは狂っていると思われるほど、激しく踊り狂って神に感謝を捧げる礼拝の姿が描かれています。これは、礼拝の多様性を神が喜ばれるということです。しかし、厳密にはユダヤ教の礼拝だということを覚えておかなければなりません。
それでは、キリスト教の礼拝ということを見る時、それは誰に対して礼拝しているのでしょうか。キリスト教会では日曜日に礼拝をしている教会が多数派を占めています。それはイエス・キリストの復活を記念して、その復活の日に礼拝するようになったからです。つまり、キリスト教における礼拝の対象はイエス・キリストなのです。
【神の子】
さて、今日の箇所は「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉で始まっています。ここにイエスが誰なのかという事が、語られているのです。それは神の子なのです。ある人々はキリストは神の子であって神ではないと主張します。ある意味正しいように聞こえるかもしれません。
私の父は富田敬二と言いますが、その子は富田愛世であって、敬二ではありません。しかし、大枠で捉えるならば、というよりこの聖書箇所に合わせて考えるならば、人間の子は人間であり、犬ではありません。犬の子も犬であって、人間ではありません、同じように神の子は神なのです。
しかし、マルコによる福音書にはイエスを「人の子」と呼ぶ箇所のほうが圧倒的に多いのです。調べてみると人の子は16回使われるのに対して、神の子は4回しか使われていないのです。なぜでしょうか。その確かな理由というものは分かりません。しかし、考えられる理由がいくつかあります。その中で私は、神がこの地上に降りてきてくださり、低くなってくださったことに強調点を置いているからだと思うのです。
マルコによる福音書は庶民の福音だと呼ばれることがあります。確かに他の福音書と比べるならばシンプルに事実だけが書かれているように思います。マタイによる福音書はユダヤ人の好きな系図で始まり、いかにもユダヤ人を対象に書かれています。ルカによる福音書はその続きである使徒言行録が「テオフィロさま」という言葉で始まるように、異邦人で権力者だった人に宛てて書かれています。また、ヨハネによる福音書にいたっては到底、庶民に向けて書かれているとは思えないような、難解な文書が並んでいます。
つまり、マルコの語る神は、学識や専門的な知識がなければ分からないような神ではありません。また、宗教的な権威主義に守られて、偉そうにふんぞり返る神でもなく、低きに降りてきて、私たちと同じ目線に立つ、愛のお方としての神、つまりイエス・キリストという神を描いているのです。
【イエスのバプテスマ】
そんな神の子がヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられました。このヨハネとは当時のユダヤ教エッセネ派といわれるグループに近い人だったようです。一説によるとイエスもエッセネ派だったとも言われていますが、真実は分かりません。
ただ、このヨハネはイエスの従兄弟であり、イエスのために道を備える者として神から遣わされていると自覚していました。そのために人里を離れ禁欲的な生活をし、人々に悔い改めを迫り、悔い改めのバプテスマを授けていたのです。
イエスは神の子ですから、罪のないお方でした。ですから、ヨハネからバプテスマを受ける必要はなかったのです。しかし、イエスの言葉を借りるなら「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」という事で、敢えてバプテスマを受けられました。その時に聖霊がハトのように天から降ってきたと記録されているのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それはヨハネのバプテスマとイエス以降の新約聖書から続くキリスト教会が行ってきたバプテスマは根本的に違うということです。
ヨハネのバプテスマは、人が自分の罪を自覚し、その罪を悔い改め、バプテスマを受けるならば、救われるという順序になっているのです。しかし、イエス以後、キリスト教会が授けるバプテスマは救われた者のしるしであり、救われた者の行為が悔い改めとなるのです。
この点を間違えると中世のカトリック教会が犯した過ちのようになり、形骸化して、一握りの宗教的な権力者に都合のよい、偽物のキリスト教になってしまいます。そこまで行かなくても、一方的な、恵みが先行する福音を受け入れず、律法主義的な信仰に留まるならば、喜びを得る事ができなくなってしまうのです。
【神の喜び】
イエスがバプテスマを受けた時、聖霊が降り「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の声がありました。この神の告白はとても重要なものです。しかし、残念ながら新共同訳聖書を読む限りにおいては、この重要な意味を理解する事が難しくなってしまうのです。
それは訳の問題があるということです。「わたしの心に適う」という言葉が新改訳聖書では「わたしはあなたを喜ぶ」と訳されています。原文では、この喜ぶという言葉が使われています。ですから、新共同訳聖書で「わたしの心に適う」と訳されているのには、何らかの意図が入っているということです。
ちなみに私が関わっている「みんなの聖書プロジェクト」という聖書翻訳のプロジェクトがあるのですが、昨年の10月からネット上でサイトを立ち上げ、創世記とマルコによる福音書の翻訳を公開しています。この「みんなの聖書プロジェクト」の超訳では、正確に「あなたはわたしの愛する子、わたしの喜びだ」と訳されています。
話を戻して、日本の宗教文化において「喜び」を表現することは、あまり好まれなかったようです。感情を表に出さず、厳粛そうな雰囲気を出す事が、宗教的に崇高なものだと思われているのです。これはキリスト教会も同じです。しかし、聖書に土台を置くならば、感情という神からの素晴らしい賜物を用いないことは、大きな罪なのです。神が与えてくださったものを「いりません」と拒否する事は、聖書の語る罪そのものなのです。
イエスの十字架と復活は、そのような罪から私たちを解放してくださったのです。しかし、昔からの伝統や習慣に囚われ、福音による解放を拒否し続ける教会が多いということは、まことに残念なことだと思わされます。
神のイエスに対する喜びの告白によって、イエスの神としての位置づけとその使命というものがはっきりと示されたのです。旧約聖書の時代のように生贄を捧げる礼拝には厳粛さが必要だったと思います。それは人間の側から神に働きかけなければならなかったからです。しかし、イエスの十字架と復活、そして、イエスが語られた福音に生きる、新約聖書以降の私たちに対して、神が望まれるのは、初めに恵みがあるということです。
そんな、イエスを礼拝する時、私たちが携えるものは、感謝と喜びの他にはありません。パウロが語るように「価なしに、神の恵みにより、キリストの贖いによって義とされた」のですから。
祈 り
賛美歌 新生326 ガリラヤの風
主の晩餐
献 金
頌 栄 新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷
後 奏
2026年1月4日 主日礼拝
投稿日 : 2026年1月4日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー
