前 奏
招 詞   イザヤ書43章25節
賛美歌   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
賛美歌   新生 73 善き力にわれ囲まれ
主の祈り
賛美歌   新生626 きみの賜物と
聖 書   マルコによる福音書2章1~12節
                   (新共同訳聖書 新約P63)
宣 教  「常識破り」     宣教者:富田愛世牧師
【罪と病い】
 先週はマルコによる福音書1章1節から15節までを読みましたが、今週は2章1節から12節までになっているので、途中1章16節から最後の45節までをとばしています。今日の聖書箇所を読むと「数日後」という言葉から始まっているので1章16節から45節までに起こった出来事の後という事になります。
 簡単に説明すると16節からの箇所でペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの四人の漁師を弟子として招き、21節からは汚れた霊に取りつかれた男を癒し、29節からは多くの病人を癒し、40節からも病の癒しの記事が記録されています。
 今日の箇所も「中風の人をいやす」という小見出しが新共同訳聖書には付けられているように、病の癒しという事が大きなテーマとなっているのです。
 このように当時の人々にとっては、病の癒しという事がとても重要な関心事だったという事が分かります。ただ、これは当時の人々だけに限ったことではありません。現代に生きる私たちにとっても病気との戦いというものは大きな関心事だと思うのです。
 ところで、私たちは苦しみを表現する言葉として「四苦八苦する」と言うことがあります。この「四苦八苦」という言葉は仏教用語で、根本的な苦しみとして「生老病死」の四つがあり、さらに四つの苦しみと合わせて八つの苦しみがあるという考え方からきています。
 この根本的な「生老病死」とは生まれたことによる苦しみ、つまり、生きている苦しみ、年老いていく苦しみ、病気になる苦しみ、そして、死ぬことに対する苦しみだというのです。仏教でも病気という苦しみは大きな関心事となっています。
 このように、洋の東西を問わず、また、時代的な新旧を問わず、病というものは人類にとって大きな関心事であり、脅威でもあったのです。
 私たちの身近にある医学は「近代医学」と呼ばれ、19世紀以降急速に発展してきました。しかし、それ以前は大まかに言って、病気になるのは、その人の犯した罪や先祖の罪に原因があると考えられていました。
 いわゆる因果応報という思想の中で病をとらえていたのです。しかし、イエスは聖書の中で何度も因果応報など関係ないと否定され、すべてのことが神の計画の中にあると語られているのです。

【イエスの力】
 さて、今日の聖書を見ていくとイエスはカファルナウムで、いつものように福音を語り、病の人を癒し、悪霊の追い出しをしていたのだと思います。
 そこに中風を患っている人の友人が四人で、中風の人を運び込み、イエスに癒してもらおうとしたのです。ところが、イエスの居た家には人が溢れていて、入ることが出来ませんでした。そこで、この四人は屋根に上り、イエスがいるであろう辺りの屋根を剥がして穴をあけ、中風の人をその穴からつり下ろしたというのです。
 この一連の行動を見たイエスは、中風の人に向かって「子よ、あなたの罪は赦される」と語りました。ところが、それを見ていた律法学者たちが心の中でイエスを非難したのです。それに気づいたイエスは、律法学者たちに「罪は赦される」と言うのと「起きて、歩け」と言うのとどちらが易しいかと質問し、中風の人をいやされたという事なのです。
 ここでイエスは3種類の力を示されました。第一は罪の赦し。第二は人の心の中を見抜くこと。第三は病いの癒しです。
 罪を赦すということは、どういうことなのでしょうか。そもそも、聖書が語る根本的な罪とは、神を神と認めないことです。この中風の人は神を認めていなかったのでしょうか。もしそうだったとするなら、この場に来ていなかったと思うのです。
 たぶん、中風の人も四人の友人も神を信じていたと思います。しかし、この当時の信仰は律法厳守と神殿礼拝でした。病の中にあったり、その他にも何らかの障害によって律法を順守できなかったり、神殿でいけにえを捧げなかったりするなら、罪人だとして排除される存在となっていたのです。
 二番目の、人の心の中を見抜く力というのはどうなのでしょうか。単純にイエスは神の子だから不思議な力を持っていたと結論付けることも可能でしょうし、そのように信じることも間違いではありません。聖書にも「御自分の霊の力ですぐに知って」と書かれているので、その通りだと思います。
 しかし、福音書に記録されているイエスの言動を見ていくなら、そのような特別な力と同時に、丁寧な観察力を持っていたことも見逃せません。
 そして、一連の流れの中で重要な「病の癒し」という力です。この病の癒しについては、古今東西、いにしえの昔から現代に至るまで、様々な見解がなされてきました。単純に考えるなら、近代医学によって証明できないものはないという意見から、近代医学以外にも病を癒す力は存在するという意見まであり、その間には星の数ほどの見解があると思います。
 私の知人に近代医学における最先端の研究をされていた方がいます。この方は漢方薬の効能を否定されています。しかし、テレビの健康番組などに出演される著名な医者の中には、漢方薬の効能を認めて推進される方もいます。
 どちらが正しいということではなく、まだまだ、分からないことが沢山あるということだと思うのです。そして、病の癒しという事についても、答えはまだないということだと思います。その中で、イエスは病の癒しによって、人々から支持されたという事実が聖書に記録されているのです。
 イエスはこれら、罪の赦し、人の心の見ぬく力、病の癒しという力をある時には優しく、ある時には厳しく、愛を持って用いられました。それはいつでも主なる神のみこころが行われるように用いられたのです。

【四人の友人】
 イエスには、神の子としての不思議な力が与えられていたと、当時の人々は感じていたと思います。そして、この箇所で人々の記憶に残る出来事が起こり、イエスの評判が広まっていったわけです。
 イエスには不思議な力がある。そして、神は全知全能で、神にはできないことがないという言葉が与えられているように、何でもできると考えることは間違いではありません。しかし、いつでも、何でも神がやってくれるのかというと、そういう事でもないようです。
 もし、ここで、中風の人と四人の友人がいなければ、この出来事は起こっていませんでした。もちろん、これらの出来事がなくても、中風の人とその友人たちが、一生懸命、神に癒しを祈れば、癒されたかもしれません。
 もし、そのような形で癒されたとしたならば、記録には残らないのです。そして、そのような記録に残されないかも知れませんが、確かに神の働きだということを、私たちは日常の中で何気ない形で経験しているはずなのです。振り返ってみるならば「あの時」という事があるはずなのです。
 そして、この箇所での出来事について言えば、中風の人と四人の友人がいなければ、起こらなかったかもしれない出来事なのです。さらに、この四人が常識的な人たちだったとするなら起こらなかったかもしれません。
 今回の宣教題を「常識破り」としました。まっすぐに聖書の言葉に従い、信仰深く歩むならば、私たちは常識を破らなければならないのです。何故なら、私たちが語る「常識」とは日本という限定された地域で、今という限定された時を生きる私たちの常識だからです。アインシュタインは「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。」と語っています。
 しかし、こう言っている私も常識を破ることが出来ません。コロナの時を思い出してください。私は常識的に礼拝を休むことに賛成しましたし、声を出して賛美歌を歌わないことや教会学校という交わりを中止すること、さらにはクリスマス礼拝に人を誘わないことに賛成しました。
 この常識的な行為が正しかったのか、間違っていたのか、未だに答えは出ていません。しかし、当時「常識的ではない」と私が非難した教会が、今、大きく成長している姿を見せられています。
 信仰によって動かされるとき、人は常識に捕らわれないで、行動することが出来るのではないでしょうか。時には律法学者たちのような非難がくるかもしれません。しかし、私たちは人からの非難を恐れるのではなく、主なる神に対する絶対的な信頼と信仰に立つことが、信仰者にとってふさわしい道なのではないでしょうか。

祈 り
賛美歌   新生476 ゆるされて
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏