前 奏
招 詞   レビ記24章4~5節
賛美歌   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
開会の祈り
賛美歌   新生125 造られしものよ
主の祈り
賛美歌   新生339 教会の基
聖 書   マルコによる福音書4章1~9節
                        (新共同訳聖書 新約P66)
宣 教  「種を蒔く人」    宣教者:富田愛世牧師
【私たちの現実】
 イエスは「神の国」について語るとき、抽象的な教義や難解な神学用語ではなく、当時の人々が日常的に目にしていた光景を用いました。マルコによる福音書4章に記されている「種まきのたとえ」も、その代表的なものです。
 湖のほとりに集まった人々に向かって、イエスは「聞きなさい」と語り始め、農夫が種を蒔く姿を用いられました。ただ。ここで不思議なのは湖のほとりなのに漁師相手のたとえではなく、農民の日常を語っている点です。
 なぜかは分かりませんが、この時、この場所に集まった人々は、漁師ではなく、農民が多かったのだろうという事です。もしかすると、漁師たちはみんな漁に出ていた時間帯だったのかも知れません。
 農民にとって畑に種を蒔くということは特別な出来事ではありません。誰もが知っている日常の営みです。しかしイエスは、そのありふれた風景の中に「神の国の現実」を見出し、そこから語られたのです。
 神の国とは、遠い天上の世界だけの話ではなく、私たちが生きているこの地上、この社会、この生活のただ中に関わるものだということが、すでにここで示されています。
 このたとえは、伝統的に「種=神の言葉」「土地=人の心」として解釈されてきました。それも重要な読み方です。実際に13節以降でイエス自身がそのように説明しています。
 しかし今回は、「種が私たち自身であり、土地が私たちを取り巻くこの世の環境である」という視点から、このたとえを読みたいと思います。
 私たちは皆、神によってこの世に蒔かれた存在です。偶然でも、無意味でもなく、神の計画によって、この時代、この場所、この環境に置かれています。
 私たちは、自分の意思とは関係なく、ある「土地」に蒔かれ、その土地の影響を受けながら芽を出し、育ち、実を結ぼうとしている存在なのです。
 そして、私たちの生きる社会は決して一律ではありません。生きやすい環境もあれば、厳しく過酷な環境もあります。努力だけではどうにもならない条件もあります。イエスは、その現実を美化することなく、四つの異なる土地として描き出されました。
 つまり、このたとえは、「なぜ実を結べない人がいるのか」を裁く物語ではないという事なのです。私もそうなのですが、聖書の言葉を読む時、多くの場合、裁きの言葉として、こうであらねばならない、こうなってはならない、というように読んでしまうことが多いのです。
 しかし、イエスはそのようには語りません。「人はなぜ躓くのか」「なぜ途中で枯れてしまうのか」という現実を、神のまなざしで見つめ直すための物語なのです。神の国の話は、理想論ではなく、私たちの厳しい現実から始まっています。

【四つの土地】
 イエスの語るたとえでは、同じ種が四つの異なる土地に蒔かれます。種に違いがあるのではありません。違いは、種が置かれた「土地」、すなわち環境にあります。この視点に立つとき、私たちはこの物語を、より切実なものとして受け取ることができます。
 最初の種は道端に落ち、鳥に食べられてしまいました。道端とは、人や物が行き交い、踏み固められた場所です。そこでは、種は根を張ることすらできません。これは、競争や効率、成果ばかりが重視され、弱さや立ち止まりが許されない社会環境を思わせます。自分の価値を考える余裕もなく、次々と押し流されていく中で、命の芽が奪われてしまう現実です。
 次の種は石地に落ち、すぐに芽を出しましたが、根を張れず、日照りで枯れてしまいました。一見すると、順調に見えます。しかし土が浅いため、困難や試練に耐えることができません。これは、短期的な成果や即効性ばかりが求められる環境に似ています。最初は評価され、期待されても、支えがなければ長くは続かないのです。
 三つ目の種は茨の中に落ち、成長はしましたが、実を結ぶことができませんでした。茨は、他の植物と養分や光を奪い合います。これは、過剰な情報、欲望、不安、比較、競争が蔓延する環境を象徴しているようです。生きてはいる、しかし本当に大切なものに集中できず、実を結ぶところまで至らないのです。それもまた、現代を生きる私たちの姿です。
 ここまでを見ると、私たちは「良い土地」に蒔かれなければ意味がないように感じるかもしれません。しかしイエスは、これらの土地を否定も排除もしていません。ただ「そういう現実がある」と語っているのです。
 このたとえは、「環境が人を左右する」という厳しい事実を見ているのです。そして同時に、「だからこそ神の国が必要なのだ」という前提を私たちに示しているのです。

【良い地とは?】
 四つ目の種は、良い地に落ち、芽生え、育ち、三十倍、六十倍、百倍の実を結びました。ここで重要なのは、「良い地」とは、もともと完璧な場所ではないということです。聖書は、良い地がどのようにして良い地になったのかを説明していません。ただ、「実を結ぶことができる土地」であると示しています。
 良い地とは、苦労や問題が一切ない環境ではありません。むしろ、耕され、石や茨が取り除かれ、水が与えられてきた土地です。つまり、手が加えられ、守られ、時間をかけて整えられた場所なのです。
 ここに、神の国の重要なメッセージがあります。神の国とは、最初から整った理想郷ではありません。神の国は、壊れやすく、傷つきやすい私たちの現実のただ中に働きかけ、環境そのものを変えていく力です。
 私たちは、自分で自分の環境を選べないことが多くあります。しかし、神はその環境をそのまま放置するお方ではありません。神の国は、踏み固められた道端を耕し、浅い石地に深さを与え、茨を少しずつ取り除いていく力として働きます。
 イエスがたとえを用いたのは、聞く者を選別するためではありません。「聞く耳のある者は聞きなさい」と語られたのは、誰にでも、その変化に気づく可能性があるからです。
 神の国は、私たちに「もっと頑張れ」と迫るのではありません。「あなたが置かれている場所で、わたしは働いている」と告げるのです。実を結ぶかどうかは、私たちの能力だけで決まるのではなく、神がどのように環境に関わってくださるかにかかっています。

【蒔かれた場所で】
 このたとえの結びは、「実を結んだ」という事実です。それは、種自身の努力の結果というよりも、土地と時間と恵みが重なった結果です。私たちもまた、神によってこの世に蒔かれ、さまざまな環境の中で生かされています。
 もし自分が道端のような場所にいると感じるなら、神は耕すことをあきらめてはおられません。石地のように感じるなら、神は深さを与えようとしておられます。茨に囲まれているなら、神は一つひとつ取り除いてくださいます。
 神の国は、「うまく生きられる人のための世界」ではありません。「実を結べないかもしれない」と感じている人のために開かれています。
 イエスは、実を結べなかった三つの種について、決して見捨てる言葉を語っていません。ただ、良い地に落ちた種が確かに実を結んだことを示し、「神の国は、こういうものだ」と語られました。
 それは、希望の宣言です。どんな環境に蒔かれても、神の国の働きによって、命は実を結ぶ可能性を持っているのです。
 「聞く耳のある者は聞きなさい」。この言葉は、裁きではなく、神からの招きの言葉なのです。神の国は、今日もこの世のただ中で、私たちを生かし、実を結ばせようとしているのです。

祈 り
賛美歌   新生563 すべての恵みの
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏