前 奏
招 詞   イザヤ書29章13節
賛美歌   新生 40 わが喜び わが望み
開会の祈り
賛美歌   新生521 キリストには替えられません
主の祈り
賛美歌   新生445 心静め語れ主と
聖 書   マルコによる福音書7章1~13節
                      (新共同訳聖書 新約P74)
宣 教  「もろは」     宣教者:富田愛世牧師
【昔の人の言い伝え】
 今日はひらがなで「もろは」というタイトルを付けました。ひらがななので「どういう意味だろう」と思われる方が多いのではないかと思います。漢字で「諸刃」とすれば分かり易かったと思うのですが、ちょっとしたこだわりがありました。
 ローマ字で「MOROHA」というヒップホップのグループがありまして、今は活動を休止しているようですが、このグループの歌詞に私にはとても共感しました。このバンド名には「言葉は人を傷つけも癒しもする」という意味が込められていて、聖書の言葉も、どのように用いるかによって、人を癒すことも傷つけることもあるので、同じだなと思いました。
 このグループの曲で「燦美歌」という歌があります。燦という字が礼拝で用いる賛美歌と違っていて「燦(あきらか)」という字が用いられています。私はあるドラマを見ている時に、この曲を聞いてとりこになってしまいました。という個人的な事で、今日のタイトルを付けてしまいました。
 本題に入りますが、マルコによる福音書7章1節から13節は、「昔の人の言い伝え」をめぐるイエスとファリサイ派・律法学者たちとの緊張感ある対話を描いています。発端は、弟子たちが食事の前に手を洗わなかった、というごく日常的で些細に見える出来事でした。しかしイエスは、この小さな出来事を通して、信仰の本質、そして神と人との関係の在り方そのものを鋭く問い直しているのです。
 私たちが聖書を読むとき、特にイエスが何かを批判する時、二者択一的にどちらが正しいのかというように判断したくなると思います。今日の箇所でも「昔の人の言い伝え」が正しいのかどうなのかに注目して読みたくなるかもしれません。
 しかし、ここで大切なのは、私たちがすぐに何かを判断しようとしないことなのです。そして、ここで大切にしなければならないのは「昔の人の言い伝え」そのものを一方的に否定するような読み方を避けることなのです。そもそも、ヘブライ語聖書に書かれている律法は、神がイスラエルの民に与えた恵みの戒めでした。
 しかし、律法は抽象的な原則だけで成り立っているわけではありません。それを日常生活の具体的な場面でどのように守るのか、どこまでが許され、どこからが禁じられるのか、民は常に判断を迫られてきました。
 そこで人々は、律法を誠実に守ろうとする中で、多くの解釈や生活上の工夫を積み重ねてきました。「こうすれば律法をより確実に守れる」「こう振る舞うことが神への敬意につながる」。そうした知恵が集められ「昔の人の言い伝え」と呼ばれるものが出来上がったのです。
 それは決して軽んじられるべきものではなく、むしろ信仰を次の世代へと伝え、共同体を支える大切な役割を果たしてきました。昔の人の言い伝えは、神の言葉を生活の中に根づかせようとする、真剣な信仰の営みから生まれたものだったのです。

【絶対化】
 しかし、どれほど良い意図から始まったものであっても、時が経つにつれて、その性格が変化してしまうことがあります。
 私たちの周りにある様々な規則や法律の中にも、出来た当初はとても意味のあるものだったはずが、時の経過と共に、最初の意図が忘れられてしまい、形だけが残って、意味がないように思われるものがあると思います。
 イスラエルの民が大切にしていた「昔の人の言い伝え」は本来、神の律法を守るための「手段」として、親から子へ、子から孫へと、先祖代々伝えられていたものなのです。それが、いつの間にか「目的」そのものとなり、それを守るかどうかが信仰の評価基準になってしまったのです。
 マルコ7章でファリサイ派や律法学者たちは、「なぜあなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのか」と問い詰めます。この問いには、律法違反によって、罪を犯していないかという心配よりも、定められた形式が守られているかどうかへの強い関心が表れています。
 昔の人の言い伝えは、恵みの戒めとして与えられた律法に対して、どのように答えていけばよいのかを示す指針だったはずなのに、いつの間にか、それ自体が絶対視され、人を裁き、区別する“基準”になってしまったのです。
 イエスはイザヤ書の言葉を引用し、「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と語られます。これは、形式的な信仰の危うさを突く厳しい言葉です。
 昔の人の言い伝えが、人間の安心感や自己正当化のための仕組みへと変質するとき、神との生きた関係は後ろに退いてしまいます。守っているという事実が、信仰の中身そのものと取り替えられてしまうのです。

【諸刃の剣】
 ここで浮かび上がるのが、昔の人の言い伝えの持つ「諸刃の剣」としての性質です。昔の人の言い伝えは、本来の在り方として、正しく用いられるならば、信仰を深め、神の計画をより具体的に理解するための助けとなります。
 しかし、形式的に受け止められ、機械的に守られるだけになると、本来の意図から大きくかけ離れてしまい、信仰を深めるどころか、表面的な形を守るというより、形をまねるだけの、愚かな行為となってしまいます。
 人は、形が整っていると安心します。決められたことを守ってさえいれば、自分は正しい道を歩んでいると錯覚してしまうからです。
 しかしその安心感は自己満足しか生み出しません。それで満足しているなら、それで良いのかも知れませんが、安心して自己満足にあぐらをかくと、他者への配慮や憐れみを忘れてしまうのです。他者への配慮や憐れみを失うと、神の言葉に対しても真摯に耳を傾けることが出来なくなってしまうのです。そのような姿勢は信仰とは言えません。
 イエスが批判されたのは、昔の人の言い伝えそのものではなく、それによって神が与えられた恵みの戒めが空洞化してしまうことでした。それこそ、恵みの戒めではなく、何々してはならないといったような、裁きの戒めになってしまうのです。
 この指摘は、現代の教会や私たち自身にも深く関わっています。長年守られてきた伝統や慣習は、共同体の記憶であり、信仰の財産です。しかし、それらが「守ること」自体を目的とし始めるとき、私たちは知らず知らずのうちに、神よりも制度や慣習を優先してしまいます。
 昔の人の言い伝えは常に、神の言葉に照らされ、問い直され続けなければならないのです。

【律法が人を縛る矛盾】
 イエスは最後に、「コルバン」の例を挙げて、この問題を極めて具体的に示されます。コルバンとは「神に献げられたもの」という意味で、本来は神への献身を表す尊い考え方でした。
 しかし当時、この制度が歪んだ形で用いられ、親を助けるべき財産を「これはすでに神に献げたものだから使えない」と主張する口実として使われていました。
 イエスは、十戒にある「父と母を敬え」という明確な神の戒めが、昔の人の言い伝えによって無効にされていることを厳しく批判されます。律法そのものは、神から与えられた大切なものです。
 しかし、それが人を愛する責任から逃れるための理由付けとして用いられるとき、そこには深い矛盾と二面性が生じます。
 この箇所は、私たちに鋭い問いを投げかけます。私たちは、神の言葉を生かすために伝統を用いているでしょうか。それとも、自分を守り、責任逃れをするために用いているでしょうか。
 昔の人の言い伝えという諸刃の剣を、命を生かす方向へと用いるのか、それとも人を傷つけ、神の計画から遠ざかる方向へと用いてしまうのか。その選択は、今も私たち一人ひとりに委ねられているのです。

祈 り
賛美歌   新生460 戸口の外にイエスは立ちて
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏