前 奏
招 詞   レビ記2章11節
賛美歌   新生 40 わが喜び わが望み
開会の祈り
賛美歌   新生538 神はわがやぐら
主の祈り
賛美歌   新生213 われらに伝えよ
聖 書   マルコによる福音書8章14~21節
                      (新共同訳聖書 新約P76)
宣 教  「イースト」     宣教者:富田愛世牧師
【現実的なまなざし】
 今日は「イースト」というタイトルを付けました。単純にパン種はイースト菌だからと思ったのですが、カタカナで書かれると東のイーストと勘違いする可能性もあると後から気づきました。2週続けて、訳のわからないタイトルになってしまい申し訳ありません。
 さて、今日はマルコによる福音書8章14節から21節までを読んでいただきましたが、一見するととても日常的で、取るに足らない出来事から始まっています。弟子たちは舟に乗り、湖を渡ろうとしていました。しかし、彼らは重大なことに気づきます。「パンを持っていなかった」のです。しかも、舟の中にあったのは、たった一つのパンだけでした。
 現代の私たちにとっては、パンを忘れたくらいのことは、どうでもいいことだと思われます。しかし、当時の人々にとっては、とても重大なことでした。現代の私たちに当てはめるなら、財布を忘れて出かけてしまったということになると思います。しかし、これも昭和世代の感覚で、現代の若者にするなら、スマホを忘れて出かけてしまったということになるのかもしれません。
 ここでまず押さえておきたいのは、イエスと弟子たちのガリラヤでの宣教活動が、決して豊かな資金や安定した後ろ盾のもとで行われていたわけではない、という事実です。
 イエスと弟子たちは基本的に自給自足的な生活を送り、日々の糧を神の備えに信頼しながら歩んでいました。その意味で「パンがない」という状況は、弟子たちにとって決して些細な問題ではありませんでした。空腹は現実であり、命に直結する切実な問題だったからです。
 弟子たちがパンのことで話し合い、気に病んだのは、ある意味でとても人間的で、理解しやすい反応です。目の前にある不足、今まさに困っている現実に心が縛られ、視野が狭くなってしまったのです。それは、現代を生きる私たちにもよくある姿ではないでしょうか。
 信仰をもって歩んでいるつもりでも、生活の不安、将来への心配、目に見える欠乏が、いつの間にか心の中心を占めてしまうのです。その姿が、この場面の弟子たちに重なって見えてきます。
しかし、この「パンがない」という状況は、単なる食料不足の問題ではありません。ここから、イエスが弟子たちに本当に伝えようとしている、より深い問いが浮かび上がってくるのです。

【パン種に気をつけよ】
 弟子たちがパンのことで頭をいっぱいにしている中で、イエスは全く別の次元の言葉を語り始めます。「ファリサイ派の人々のパン種と、ヘロデのパン種によく気をつけなさい。」この言葉は、弟子たちの関心とはかみ合っていないように見えます。
 弟子たちはこの言葉を聞いても、それを霊的な警告として受け取ることができず「パンを持っていないから、こんなことを言われたのだ」と考えていたようです。彼らの思いは、終始「食べ物」という目に見える問題に縛られていました。
 しかし、イエスが語る「パン種」とは、文字通りのパンの材料ではありません。今日のタイトルにつけた「イースト菌」ではないのです。このイースト菌、パン種は、少量であっても全体を発酵させ、大きな影響を及ぼします。
 イエスはここで、ファリサイ派やヘロデに象徴される「邪悪な思い」「歪んだ価値観」「神から離れた生き方」が、人の心に静かに入り込み、気づかぬうちに全体を支配してしまう危険性を指摘しているのです。
 ファリサイ派のパン種とは、表面的な敬虔さや律法主義、自己正当化の心です。ヘロデのパン種とは、権力や欲望、世俗的な成功に心を奪われる姿勢です。これらは、露骨な悪としてではなく、もっと巧妙で、魅力的な形で忍び寄ってきます。だからこそ、イエスは「十分に気をつけなさい」と強く警告されたのです。
 弟子たちはイエスと共に歩み、多くの奇跡を目の当たりにしてきました。それでもなお、彼らの心は、知らず知らずのうちに世の価値観や不安に影響されていました。よく「奇跡を自分の目で見たら信じてやる」などとおっしゃる方がいますが、自分の目で見たことは信じるべきものではなく、一つの現実でしかないのではないでしょうか。
 イエスの警告は、弟子たちだけでなく、信仰の道を歩むすべての者に向けられた言葉でもあります。そういう意味で、私たちは弟子たちより恵まれているのです。弟子たちは自分の目で見たのに理解できませんでした。しかし私たちは自分の目で見ていないので、信じるという恵みに与ることができるのです。

【見ても見えず、聞いても聞こえない】
 弟子たちの反応を見たイエスは、厳しい言葉で彼らに問いかけます。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。」心がかたくなになっているとは、心の鈍さ、鈍感さを表しているのです。
 ここでイエスが問題にしているのは、弟子たちの理解力の不足そのものではありません。イエスが問うているのは、彼らの「心の向き」なのです。目はあっても見えず、耳はあっても聞こえないというのは、情報や知識が足りないということではなく、イエスの存在そのものをどう受け止めているか、という根本的な問題なのです。
 弟子たちは、イエスを「自分たちの必要を満たしてくれる方」としては理解していました。しかし、イエスが「何者であるのか」「なぜ共におられるのか」という問いに対しては、まだ十分に答えることができていませんでした。
 イエスの関心は、食べ物があるかないかではありません。状況が満たされているか、不足しているかでもありません。
 イエスが伝えたかったのは、どんな欠乏の中にあっても共におられる神の現実であり、命の源としてのご自身の存在意義でした。弟子たちがパンに心を奪われている限り、この本質は見えてきません。だからイエスは、あえて厳しい問いを投げかけ、弟子たちが当たり前だと思っていた考え方を崩し、パンではなく、ご自身に目を向けさせようとされたのです。
 この場面は、私たち自身の信仰の姿を映す鏡でもあります。祈りの中で、私たちはしばしば「必要なものが足りない」ことばかりを訴えます。しかし、その背後で、「主が共におられる」という事実を、どれほど深く受け止めているでしょうか。
 以前お話ししたことがあると思うのですが、30年近く前、北海道の教会で礼拝の中で献金の時間が来ました。私の父はとても厳格な牧師だったので、礼拝の献金は前もって準備しておきなさいと言われてきました。いつもは準備しているのですが、ある時、準備せずにいたら財布の中に五千円札しか入っていなかったのです。
 私は躊躇しました。五千円献金すべきか、それとも今日は忘れたことにしようか。躊躇しながら、思い切って献金したのです。ちょっと後悔しながらも気持ちは晴れていました。その日の夕方、伝道所で賛美の集会があったので、そこに向かう途中ハンバーガー屋さんで夕食をとりました。たまたまハンバーガーを買うとくじ引きがあったのです。そして、くじを引いたら2等賞くらいでしょうか、五千円が当たったのです。
 必要なものが備えられただけでなく、主が共におられるということを感じさせられました。もちろん、こんなことがいつでもあるわけではありません。これほど具体的なことは一度限りでしたが、丁寧に振り返るなら、同じように、いつも支えられているのです。

【まだ悟らないのか】
 最後にイエスは、弟子たちに五千人の共食と四千人の共食という出来事を思い出させています。そして「五千人に五つのパンを裂いたとき、集めた屑はいくつあったか。」「四千人に七つのパンを裂いたときはどうだったか。」と問うているのです。弟子たちは、それぞれ「十二の籠」「七つの籠」と正しく答えます。
 ここに、イエスの深い意図があります。弟子たちは、すでに十分すぎるほどの証拠を見てきました。欠乏のただ中で、神の豊かさが現される出来事を、何度も体験してきたのです。それにもかかわらず、今なお「パンがない」ことに心を奪われ、不安に支配されているのです。その矛盾が、イエスの問いによって明らかにされるのです。
 「まだ悟らないのか。」この言葉は、叱責であると同時に、愛に満ちた招きでもあります。イエスは弟子たちを見放しているのではありません。むしろ、彼らが記憶を通して信仰を新たにし、恐れから解放されることを願っておられるのです。
 私たちもまた、日々の生活の中で同じ問いを向けられています。過去に与えられた恵み、助け、導きを思い起こすとき、今の不足や不安は、違った光の中で見えてくるのではないでしょうか。
 パンの有無を超えて、イエスは「共にいる」という現実を示されます。そして、邪悪なパン種に心を支配されるのではなく、神の国の価値観に生きるよう、静かに、しかし確かに招いておられるのです。

祈 り
賛美歌   新生505 尊き主の愛
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷  
後 奏