前 奏
招 詞 マラキ書3章23~24節
賛美歌 新生 40 わが喜び わが望み
開会の祈り
賛美歌 新生484 救い主王は
主の祈り
賛美歌 新生134 生命のみことばたえにくすし
聖 書 マルコによる福音書9章2~13節
(新共同訳聖書 新約P78)
宣 教 「変わること」 宣教者:富田愛世牧師
【不安な三人】
今日の箇所は「六日の後」という言葉から始まっています。六日前に何があったのでしょうか。今日は読んでいませんが、8章31節以降を見ると、新共同訳聖書では「イエス、死と復活を予告する」という小見出しがついています。つまり、イエスがこれからご自身の受けられる受難を予告された後と言うことなのです。
イエスが受難を予告されたとき、弟子たちの心は大きく揺れ動きました。それまで彼らは、イエスこそがイスラエルを回復し、栄光の王国を打ち立てる方だと信じていました。
しかしそのイエスが弟子たちに向かって「人の子は多くの苦しみを受け、殺され、三日の後によみがえる」と語られたのです。この言葉は希望ではなく、不安として彼らの胸に刺さりました。弟子たちの頭の中には「なぜ救い主が苦しむのか」「なぜ神の方が敗北するのか」という疑問がグルグル回っていたと思います。
そのような重苦しい空気の中で、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られました。なぜ三人だけだったのでしょうか。それは、彼らが特別優れていたからではありません。
むしろ彼らは、後に福音書の中で最も人間的弱さをさらけ出す弟子たちです。イエスは完全な理解者ではなく、理解できない者を選ばれるのです。イエスが山に登られた理由は、彼らを試すためでも、特別扱いするためでもありません。彼らに「真実」を見せるためでした。
聖書において山は、神がご自身を現される場所です。モーセが律法を授かったのも山、預言者が神の声を聞いたのも山でした。つまりイエスは弟子たちを、神の現実に触れさせる場へ導かれたのです。恐れと混乱の中にいる者を、神はそのままにはされません。理解できないまま放置するのではなく、むしろ混乱している状態の中で、ご自身を示そうとなさるのです。
弟子たちは不安でしたが、イエスは、その不安を責めることなく、山へと招かれました。これは私たちにも向けられた招きです。信仰とは、疑いのない人が持つ確信ではありません。むしろ、恐れを抱えたままイエスに連れられていく歩みなのです。山へ登る道は険しく、先は見えません。しかしイエスと共に登るなら、その先には神の現実が備えられているのです。
【理解できない現実】
山の上で弟子たちが見た光景は、言葉を失うほどの出来事でした。イエスの姿が変わり、衣は世のどんな布さらし職人にも白くできないほど輝いたのです。これは単なる奇跡ではありません。主の内に隠されていた神の栄光が、一瞬、外に現れたのです。
さらにそこに現れたのは、律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤでした。つまりヘブライ語聖書全体が、この方こそ救い主だと証言している光景だったのです。
しかし弟子たちは、目の前の現実を理解できませんでした。言葉を失うほどに圧倒されましたが、それが何を意味するのか解らなかったのです。そこでペトロは思わず「ここに仮小屋を三つ建てましょう。」と言いました。これは敬虔な提案のように聞こえますが、実は的外れでした。
彼はこの栄光の瞬間を地上に留めようとしたのです。けれど神の栄光は、人間が固定できるものではありません。神の栄光は、体験として保存するものではなく、従うべき啓示なのです。
ここに弟子たちの問題があります。彼らは「栄光」は受け入れたいけれど「受難」は受け入れたくなかったのです。輝くイエスは受け入れられても、十字架のイエスは受け入れられなかったのです。
しかしイエスの思いは違いました。栄光に輝く姿と、十字架にかかる姿は、同じイエスの姿なのです。神の栄光は、苦しみを避けた場所ではなく、苦しみを引き受けた場所に現れるからです。
その時、雲が彼らを覆い、声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは恐れました。ここで神は説明を与えませんでした。神が求められたのは理解ではなく、従順でした。
分からなくても聞け、というのです。信仰の核心はここにあります。理解してから従うのではなく、従う中で理解へ導かれるのです。
【不思議な質問】
その後、山を下りながら、弟子たちは不思議な質問をしました。それは「律法学者たちは、なぜまずエリヤが来ると言っているのでしょうか。」というものです。弟子たちの関心は「体面」と「理屈」だったのです。彼らは神の声を聞いた直後でさえ、なお体面を気にし、議論の枠組みで物事を理解しようとしていたのです。
イエスは「エリヤはすでに来たのだ」と答えられました。そして「人々は彼を好きなように扱ったのだ」と続けました。そのエリヤとは、バプテスマのヨハネのことだったのです。
ここに決定的なズレがあります。弟子たちは、救いは分かりやすい形で来ると思っていました。だれもが納得する形、だれもが認める形、権威ある姿で来ると期待していたのです。
しかし神の働きは、彼らの予想とはまったく違う形で現れました。荒野で叫ぶ預言者として現れたヨハネは、王宮ではなく牢獄に入り、きらびやかな栄光ではなく、首を切られ、見世物にされて生涯を閉じました。弟子たちは、この現実を理解できませんでした。
けれどイエスは「人々は彼を好きなように扱った」と言われます。これは冷たい言葉ではありません。むしろ現実の宣言です。神の救いの業は、人間の理解や歓迎に左右されないのです。人が理解しようとしまいと、受け入れようと拒もうと、神の計画は進みます。
弟子たちは山の上で栄光を見ました。しかし山から降りてきても、なお理解できませんでした。これは失敗ではありません。むしろ信仰の現実です。人は一度の体験で完全に悟ることはありません。栄光を見ても、なお分からない。それが人間なのです。
【理解できなくても】
今日のタイトルは「変わること」としました。最初は山の上で、イエスの姿が変わったので、そこに焦点を当てようと思い、このタイトルをつけました。しかし、聖書を読んでいく中で、ポイントは違うところにあると気づきました。この箇所の中心テーマは、弟子たちの無理解なのです。そして、それは「変われない」と言うことなのです。
このテーマは弟子たちだけのことではありません。私たちの物語でもあるのです。私たちもまた、神の計画を完全には理解できません。なぜ祈りがすぐ聞かれないのか、なぜ苦しみがあるのか、なぜ神は沈黙されるのか、その問いに明確な答えを持たないまま歩くことがあります。信仰を持っていても、なお分からないことだらけです。
しかし重要なのは、理解できるかどうかではありません。神が働いておられるかどうかです。弟子たちは理解していませんでした。それでもイエスは彼らを見捨てませんでした。むしろ理解できない彼らを連れて山に登り、栄光を見せ、語り続け、導き続けられました。神の救いは、理解力のある人だけに与えられる報酬ではありません。理解できない者にこそ与えられる恵みなのです。
私たちはしばしば、「分かったら信じます」と言います。しかし福音は逆です。「信じなさい。そうすれば分かるようになる。」信仰とは知識の完成ではなく、関係の始まりです。
弟子たちは最後まで完全には理解できず、変わることができませんでした。それでも彼らは遣わされ、用いられ、福音の証人となりました。神は理解不足の人を退ける方ではなく、理解不足の人を用いる方だからです。
山の上の栄光と、山の下の混乱。その両方の中にイエスはおられます。輝く瞬間にも、分からない日常にも、同じイエスが共におられます。そしてイエスは今日も語られます。
「これに聞け。」理解できなくても従う者に、神は必ずご自身を現されます。だから私たちは安心して歩めるのです。分からなくても大丈夫です。神の救いの計画は、すでに私たちに向けて始まっているのです。
祈 り
賛美歌 新生453 主よ われは今ぞいく
献 金
頌 栄 新生668 みさかえあれ(A)
祝 祷
後 奏
2026年2月22日 主日礼拝
投稿日 : 2026年2月22日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー
