前 奏
招 詞 詩編50編14~15節
賛美歌 新生 26 ほめたたえよ造り主を
開会の祈り
賛美歌 新生 87 たたえまつれ 神のみ名を
主の祈り
賛美歌 新生 41 いとも慕わしきイエスの思い
聖 書 マルコによる福音書12章13~17節
(新共同訳聖書 新約P86)
宣 教 「わな」 宣教者:富田愛世牧師
【群衆の中のざわめき】
今日の箇所は「皇帝に税金を納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」という、イエスに対する非常に有名な問いから始まります。
しかし、まず13節の言葉を見てみたいと思うのです。そこには「さて、人々は」とあるのです。ここに出てくる「人々」とは誰でしょうか。
11章を見るとイエスがエルサレムに入城された場面が記録されています。民衆は「ホサナ」と叫んでイエスを歓迎しました。そして、次の場面では神殿で商売をしている人たちをイエスが追い出し、祈りの家と呼ばれるべき神殿を強盗の巣にしていると強い口調で非難しているのです。
これによって、祭司長、律法学者、長老たちはイエスを邪魔者として見るようになり、イエスを捕らえようとしました。しかし、群衆がイエスを支持していたので捕らえることができませんでした。つまり、この「人々」とは、イエスに敵意を抱いていた宗教的指導者たち、あるいはその背後にいる支配者層全体を指していると考えられます。
宗教的指導者たちはイエスを捕らえ、抹殺しようと考えていました。しかし、群衆の手前、大っぴらに捕らえることができないので、捕らえるための口実を作るため、言葉の罠にかけようとしたのです。
この税金に関する質問は、政治と宗教が絡み合った、非常にデリケートな質問でした。そして、この質問を理解するためには当時のユダヤの状況を知らなければなりません。当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、重税が課され、ローマ兵が駐留し、皇帝の権威が押しつけられていました。
民衆の心には神の民であるはずの自分たちが、なぜ異邦人に支配されているのか。といった漠然とした不満がありました。「なぜ神は自分たちを解放してくださらないのか。」「神の国はいつ来るのか。」「メシアはいつローマを倒すのか。」といった問いが強い不満となっていたのです。この不満は、単なる政治的不満ではなく、神へのもどかしさでもあったのです。
【稚拙なわな?】
そのような空気の中で「皇帝に税金を納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」という質問が「罠」として出てきたのです。一見すると、この罠はあまりにも単純です。
「納めよ」と言えば民族的な裏切り者として、ファリサイ派の人々からの非難を浴びるでしょうし、「納めるな」と言えばローマへの反逆者と見なされて、ヘロデ派の人々によって、ローマの法廷に訴えられるかもしれませんでした。
二者択一的に、どちらかを選ばなければならないという空気の中で、どちらを選んだとしても、それはイエスにとって不利な選び取りでしかなかったのです。あまりにも幼稚な質問です。このため、後の創作ではないかと疑う人もいます。しかし、私たちはこの問いを軽く見てはなりません。
当時、この問いは非常に危険な、命がけの問いだったのです。実際に、税金問題をきっかけに暴動が起こったこともありました。これは理論上の問題ではなく、命を左右する問題だったのです。
そして何より重要なのは、この問いが象徴しているものです。それは、短絡的に解決を求める心です。民衆は白黒はっきりした答えを求めました。今すぐの解放、今すぐの革命、今すぐの神の業。敵対者もまた、どちらの立場をとるのかと、イエスに対して二者択一的な答えを迫りました。
しかし、イエスはそんな稚拙な誘いには乗らずに「デナリオン銀貨を持ってきなさい」と言って、人々に自分の目で確かめさせるのです。「これは誰の肖像と銘か」彼らは「皇帝のものです」と答えます。
彼らはその硬貨を日常的に使っていました。つまり、ローマの経済に組み込まれていたのです。ローマからの解放を願いながらも、ローマの支配によって安定した生活を送っているという矛盾の中に生きていたのです。
そして「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われました。
【二つの現実】
この言葉はよく政教分離の根拠として引用されます。しかし、ここでイエスが語っているのは、単なる制度論ではありません。それは、私たちが生きている、この現実社会の中にある二重性を認識しなければならないということです。
ローマの支配は確かに現実でした。しかし、それは究極の現実ではありません。人間の作りだしたものは、必ず滅びてしまいます。しかし、永遠に存続するものがあるという福音の真理を覚え、そこに軸足を置いておかなければならないのです。
皇帝の像が刻まれたデナリオン銀貨は皇帝に返せばよいとイエスは語ります。それでは、神のものとは何でしょうか。
創世記1章26節を見ると、人は神のかたちに造られた、と記録されています。さらに2章7節では、人に命の息を吹き入れた、記録されているのです。デナリオン銀貨には皇帝の像が刻まれています。しかし人間には神の像が刻まれているのです。つまり、あなた自身が神のものなのです。
イエスは税金問題を超えて、私たち人間の存在という問題に踏み込まれました。民衆はローマからの解放を求め、敵対者は二者択一的に白黒ハッキリした答えを求めました。しかしイエスは、ローマの支配を否定して革命を起こすこともなく、無条件にローマを正当化することもしませんでした。
イエスは、ローマの現実を認めつつ、神の究極的主権を宣言されるのです。それは、力による解決ではなく、神の時と方法による救いを信頼する姿勢なのです。この後、イエスは十字架へと向かわれます。ローマの政治犯への見せしめのような極刑です。しかし、その十字架こそが神の勝利となるのです。
今日の聖書は二千年前の税金論争では終わりません。私たちもまた、複雑な現代社会の中に生きています。国家、経済、制度、責任。それらを無視して信仰だけを語ることはできません。しかし同時に、国家も経済も究極ではありません。究極なのは神の支配なのです。
イエスの言葉は、私たちの心がどこに向いているのかを問います。仕事でしょうか。人々の目や他人の評価といった世論でしょうか。それとも、国家でしょうか。最近、話題になっている安全保障でしょうか。それらに関心を持つことは大切です。しかし、それらは究極的なものではありません。究極的なものに目を向けていく必要があるのです。
また、イエスの言葉は、私たちの心の中心に何があるのかを問います。あなたの時間は誰のものですか。あなたの心は誰のものですか。あなたの恐れは誰が支配していますか。イエスは現実逃避を勧めてはいません。むしろ、現実をしっかりと見据えた上で、究極の現実を見失うな、と言われるのです。
私たちは現実を生きていると同時に、神の国に属する者でもあります。この二重性の中で生きることは簡単ではありません。だからこそ、イエスは単純な答えを与えなかったのです。信仰は、正しいとか間違いだとか、白黒つけることではなく、究極の主権を見極めることなのです。
【神の像】
デナリオン銀貨には皇帝の像が刻まれていました。しかし、私たちには神の像が刻まれています。デナリオン銀貨は皇帝に返せばよいのです。そして、私たち自身は神に返されるべき存在なのです。
この世界は不安定です。国家も制度も揺れ動きます。しかし、神の支配は揺るぎません。イエスはその支配を、力ではなく、十字架によって示されました。
短絡的解決を求める私たちに、イエスは今日も「皇帝のものは皇帝に。神のものは神に。」と語られます。
あなたは、誰のものですか。その問いの前に立ち、私たちは自らを神にささげることができるなら幸いです。
祈 り
賛美歌 新生547 わが霊なやみて
献 金
頌 栄 新生671 ものみなたたえよ(A)
祝 祷
後 奏
2026年3月8日 主日礼拝
投稿日 : 2026年3月8日 |
カテゴリー : 礼拝メッセージ -説教ー
