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「イエスの家族」 マルコ福音書3章31~35節
宣教者:富田愛世牧師
【出ていく人と待つ人】
マルコ福音書を読み始めてから「群衆」という言葉にこだわり続けていますが、ここでも群衆が登場します。この群衆といわれる人々は支配階級にある人々と対立関係にある人々を表しています。
つまり、イエスの元に来る群衆とは、社会的に虐げられている人々、社会的弱者たちと捉えることができるのです。そして、そのような人々がイエスを歓迎し、イエスを喜んでいるというところに大きな意味があるのではないかと思わされます。
この箇所には群衆と対立して、もう1種類の人々が登場します。それはイエスの身内の人たちなのです。そして、それぞれのイエスに対する接し方に大きな違いがあることに気づきます。
群衆はいろいろな地域から、自分たちの意思によって集まり、イエスに近づいていったのです。しかし、身内の人たちはどうかというと、彼らはイエスの近くに行こうとはしていないのです。
「取り押さえ」ようと出てきていますが「外に立ち、人をやって」イエスを呼んでこさせているのです。つまり、イエスと一緒にしないでほしい。あんな気が変になっている奴と一緒にはなりたくないという思いが出ているのです。
社会一般では権力者が権力のない者を呼びつけるのが当たり前です。たまに例外もありますが、どちらが主導権を握るかということで「出て行く」か「待つ」かという事が決まってくるのです。
【権威主義への挑戦】
そのような身内の人たちに対してイエスは「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答えています。なんとなくイエスらしくない冷たい答えのように感じるかもしれません。しかし、この答えには権威主義に対する警告が込められているのです。
一般的に、組織の指導者が世襲制となっていく時、それによって事が上手く運んでいくこともありますが、長く続きすぎると権威主義的になり様々な問題が起こってきます。
初代のキリスト教会において、そのようなことが起こることをイエスは懸念していたのかもしれません。この時点ではまだ教会は誕生していませんが、この後、弟子たちによって教会が誕生します。その時にイエスの身内だからということで指導者が選ばれることの無いようにと戒めているのではないでしょうか。
教会の指導者というのは、イエスの身内だからとか、人間的な関係性で選ばれるのではありません。そこには神からの召命というものがなければなりません。
召命には様々な種類があり優劣はありませんが、教会の指導者としての召命は特別なものがあると思うのです。そして、そこには神にのみ、絶対的な権威を認めていくという姿勢がなければならないのです。
また、先程イエスの身内の人たちが群衆と対立して書かれていると言いましたが、群衆とは社会的な弱者であり、虐げられた人々です。彼らと同じ場所に立つことができない身内の人たちの高ぶりに対してもイエスは警告を発しているのです。
【イエスの家族】
さて、イエスは34節以下で「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と語ります。
イエスの家族とは誰なのでしょうか。私は初め「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とあるので、神の御心を行う人が、キリストの家族だと思っていました。しかし、イエスはまず群集に向かって「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言い切っているのです。
そこには「御心を行う」という条件があるのではありません。そこに集まっている群衆に対して、語られている言葉なのです。そして、その群衆が「神の御心」を行っている人たちなのだと語っているのです。
この場面に登場する人たちは群集と律法学者たちとイエスの身内の人たちです。その中で「神の御心」を行う人は群集だというのは、ある人にとっては合点のいかないことかもしれません。
律法学者たちは律法を守っています。だから「神の御心」を行っていると言えるかもしれませんが、彼らは「神の御心」を行うために、律法を守ることのできない人たちを裁いています。
神ではない人間が他の人間を裁くという事は「神の御心」であるはずがないのです。
イエスの身内の人たちはどうでしょうか。「神の御心」に適ったから家族になったのでしょうか。マリアとヨセフは「神の御心」によって選ばれました。御心に適ったから選ばれたのではなく、神の御心として選ばれたのです。
その流れから見ると、御心によって身内となったかもしれませんが、御心を行うことはできなかったようです。無意識かもしれませんが、イエスに近づくのではなく、イエスを呼びつける側、つまり群集と同じ場所には立てなかったのです。
【イエスの視線】
今世界中で「人種差別撤廃」の運動が起こっています。一人の黒人男性が、黒人であるという事で不当に拘束され、警察官に殺された事件をきっかけに、アメリカ全土から世界中に広がりました。
「Black Lives Matter」という言葉がスローガンとなっていますが、一部では、黒人の命だけが大切なのではなく、すべての命が大切だという意味で「All Lives Matter」という人たちが現れました。一見もっともな意見のように感じますが、話の論点をすり替えているだけなのです。
誰も黒人以外の命が大切ではないなどと言っているのではありません。今、危機にさらされているのが黒人たちの命であって、そのことに対して問題提起をしているから「Black Lives Matter」なのです。
似たようなことが聖書に中にも起こっているような気がします。北村慈郎という日本基督教団の牧師が「食材としての説教」という本の中でそのことを指摘しているので、引用します。
「マタイによる福音書の並行記事によると、マルコの34節「自分をとりかこんでいる人々を(つまり群集を)見回して」が「弟子たちの方に手をさしのべて言われた」となっています。マタイは明らかに群集と弟子たちを区別しています。そしてイエスの「母」や「兄弟姉妹」とは弟子たちのことなのだと言うのです。恐らくマタイは先に書かれたマルコの言葉を修正したのでしょう。ルカはマルコのこの部分(34節)は全部削除しています。マタイが修正し、ルカが削除するほどに、このマルコのイエスの言葉は革命的だったのでしょう。なぜなら、マルコにあっては、イエスの周りに座っている群衆が何の条件もなくイエスの母であり、イエスの兄弟・姉妹だと書かれているからです。」
群集だけがイエスの家族ではなく、弟子たちも家族だと言いたいのかもしれませんし、群集の中には、イエスに求めるだけの都合のいい人や物見遊山の人、犯罪者だっていたかもしれません。そんな人たちが「神の御心を行う人」だとは認めたくないという思いもあったのではないかと思います。
しかし、イエスの視線は、今、弱くされている人、社会から忘れられている人、家族から見捨てられた人、そんな人たちの集まりである群集に向けられているのです。そして、彼女、彼らを無条件に家族として受け入れ、共に歩もうと招いておられるのです。
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