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「教会の成長」 箴言23章23節
宣教者:富田愛世牧師
【成長のために】
皆さんは教会が色々な意味で成長することを望んでおられると思いますが、いかがでしょうか。こんなことを言うと「牧師は変な質問をする」と思われるかもしれませんが、教会が成長することを望むということは、当たり前のことではないのです。
教会をサークルやサロン、仲良しクラブのように考えている人にとっては、成長してもらっては困るのです。
しかし、市川大野教会は執事会や皆さんとの話の中で、成長を願っていると私は理解しました。ですから、教会成長について、今回は数量的なことを中心に考えていきたいと思っているのです。
教会の成長を考える時、色々な方法論が語られます。そして、当たり前のように思われていることが、実は間違った方法だったりすることがよくあるのです。昔ながらの「神話」のように語り継がれているけれども、実際には何の根拠もなく、思い込みだったということがあるのです。
私たちが本気で成長したいと願うならば、まず、そのような「神話」から自由にならなければなりません。特に今、コロナ危機の中にあって教会の活動自体が制限されたり、見直されたりしている中で、今までの常識では通用しなくなる事柄が出てきています。
今までの常識とは違うと思われるかもしれませんが、それは、今までの伝道についての総括がなされなかったゆえのツケが今、まわってきているということなのです。
【大教会からは学べない】
第一の神話は「大教会からは学べない」ということです。ここで言う大教会とは何を表すかについて議論するならば、一日かけても終わらないでしょうから、ここでは人数的に大勢の人が集まっている教会としておきます。
「あの教会とは規模が違うから同じ事は出来ない」と言って大教会からは学べないと結論付けることがよくあります。しかし、同じ事は出来なくても、学ぶべきことはたくさんあるのです。そして、その時に問題になるのは、教会の成長は質なのか、量なのかということなのです。
しかし、このような二者択一的な選択は全くナンセンスです。質か、量か、これらはどちらかを選ばなければならないものではありません。どちらも大切なものなのです。本当に質の良いクリスチャンの周りには自然と人が集まってくるのです。また、大勢人がいると、様々な賜物を持っている人がいて、ミニストリーが広がるのです。つまり質と量は、互いに関係し合っているのです。
また、ある人は「大教会は弱小教会の犠牲の上にある」と思っているそうです。私もそのように思ったことがあります。しかし、これも真実とは言えません。ここには大きく2つの考え方があって、一つは小さな教会の教会員がそこを離れて、楽しそうな大教会に移ってしまうということです。しかし、これにはお互いの責任があるわけですから、一概に大教会のせいにはできません。それよりも、別の教会であっても、そこで信仰生活を送ることができるのならば、互いにそのことを喜び合えばいいのではないでしょうか。
もう一つは妬みから来る思いです。本当は自分たちの教会も、人数的に大勢集まる教会になりたいと願っているのに、そうなれない時、妬みの気持ちが起こります。とても単純なことですが、気をつけなければなりません。
【福音の安売り】
また、大教会に人が集まるのは、メッセージなどで厳しい事が語られないで、優しい事ばかり語られているとする人がいます。福音が安売りされていると批判する人がいるのです。
皆さんは「福音の安売り」という言葉を聞いたことがありますか。似た言葉に「安価な恵み」という言葉があり、ボンヘッファーというドイツの神学者が何の応答もない、受けっぱなし恵みのことをこう語っているので混同しないでください。
でも私は福音の安売りと聞いて、いい言葉だと思ったのです。私は「セール」「バーゲン」「大安売り」といった看板を目にすると、自然と足が向いてしまいます。そして、そこは人だかりになって、みんな、何とかして良い商品を手に入れようと必死になるのです。
本当に良いものならば、人は高いお金を出してでも買います。行列に並んででも買います。そして、本当に良いものならば安売りをしたとしても価値は下がりません。本物というのは両面を持ち合わせているのです。先程の質と量と同じことなのです。
ただここに私たちは人間の常識を当てはめてしまうのです。質を維持するためには、量産できない。数的にたくさん作ろうとするなら、品質が落ちてしまう。この矛盾は物質主義と効率主義に根ざした考え方です。しかし、神は物質主義者でもなければ、効率主義者でもありません。どちらかを犠牲にしなければ、何かを作り出せない人間とは違うのです。最高の品質のものを大量に造りだせるお方です。
箴言の作者は「真理を得よ、知恵も諭しも分別も手放すな」と語ります。新改訳聖書では「真理を買え。それを売ってはならない。」と訳されています。この表現の方が原語に忠実だと思います。真理を買えという事は対価を払う価値があるという事です。売ってはいけないくらい大切なのです。真理とは何ですか。福音です。これらのものを私たちクリスチャンは既にいただいているのです。イエスが十字架においてあがないの血を流して下さったということは、すでに代価が払われているということなのです。
この素晴らしい商品の販売員として私たちは世に遣わされているのです。真理という魅力的なものを持っているならば、それを得ようと人は集まってくるはずです。なのに、誰も来ないというのは、真理の回りに不必要な装飾を付け加えているからなのです。
【不必要な装飾】
不必要な装飾とは何でしょうか。それは、福音とは関係のない、私たちの主義であり、神話なのです。
福音はそのままの姿でキリストの下に来なさいと語りますが、それを伝えるクリスチャンは、自分の持っているクリスチャン像を押し付け「クリスチャンのようになってからイエスの所に行きましょう」と伝えてしまうのです。何事にも段階というものがあります。神の救いという事実は1回だけですが、クリスチャンとしての成長を考えるならば一足飛びには行きません。一歩一歩あゆむのです。
クリスチャンはイエスの十字架によって救われたことを知っていますから、応答することが喜びに変えられるのです。しかし、十字架を理解していない人にとって福音は愚かな作り話なのです。段階を経ていかなければならないのです。
また、教会は変わらない神の御言葉を持っていますが、もう一方の手では、変わり続けるこの世に仕えていかなければなりません。浮世離れしていてはいけないのです。このバランス感覚を身に付けなければならないのです。
成長ということについてパウロは第一コリント3章で「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」と語ります。成長させるのは神ですが、植え、水を注ぐことも必要なのです。
どこに植えるか、いつ水を注ぐか。これは社会を見ていなければ分からないことです。良い地に種を蒔かなければ、芽を出しません。真夏のカンカン照りの時に水をあげるとお湯になって枯れてしまいます。北海道と沖縄では植えるものも、植える時期も違います。人間の知識、常識は絶えず変化しています。
教会の成長を妨げているのは、私たちクリスチャンかも知れません。今一度、謙虚に自分自身を見つめなおし、神の前に、与えられると信じて求めていきましょう。
讃 美 新生262 み霊よくだりて 主の晩餐 献 金 頌 栄 新生673 救い主い子と 祝 祷 後 奏