前 奏 招 詞 申命記6章4~5節 讃 美 新生 13 ほめまつれ 主なる神 開会の祈り 讃 美 新生650 喜びて主に仕えよ 主の祈り 讃 美 新生415 我が主よ ここに集い 聖 書 ヨハネによる福音書15章16~17節 (新共同訳聖書 新約P199)
「実が残るために」 ヨハネによる福音書15章16~17節
宣教者:富田愛世牧師
【教会の成長】
今日のメッセージは先月の続きで、教会の成長というものは数であるとか、質であるとか、そういったものによって比べることや計ることのできないものだという認識を持たなければなりません。
なぜかと言うと、教会はキリストを頭として、この世に建てられたものだからです。キリストが頭となっているということは、A教会がB教会よりも優れたものになるということにはなりません。
もし仮に、A教会はバプテスマのヨハネを頭とした教会で、B教会はパウロを頭とした教会であるならば、どちらが優れているかというように比べることができるかもしれません。
しかし、聖書によるならば、どの教会も頭をキリストとしているわけですから、それぞれ個性的な教会ではありますが、そこには優劣はないはずなのです。それを私たち人間が勝手に、自分たちの価値基準に当てはめて、こっちの教会が優れているとかあっちの教会はダメだとか決め付けているだけなのです。私には非常に愚かなことだと思えてならないのです。
それぞれの教会には、個別な使命、役割が与えられているのです。そして、教会がすべきことは、それぞれの使命を果たしていくこと、役割を担っていくことなのです。
ただ、残念なことにそれぞれの使命や役割に気付いていない教会が多いのは事実だと思います。ですから、使命や役割に気付いて、今日の聖書にあるように、実を結び、その実が残るようにしなければならないのです。短期決戦ではなく、継続的な働きなのです。
私たち自身に、この問いを投げかけるとすれば、どうなるでしょうか。私たちは、この市川大野教会に与えられている使命を理解しているでしょうか。市川大野教会が担うべき役割をきちんと担っているでしょうか。そして、実を残すことが出来るでしょうか。
様々な環境が整えられた今、私たちが本当に成長したいと願っているのならば、真剣に考えなければなりません。
【一つの真理】
先月、多くの教会は間違った教会成長神話と呼ばれるものに惑わされていると語りましたが、今日、考える一つ目の神話は、教会成長の真理は一つだというものです。これは言葉のレトリックというのでしょうか、陥りやすい罠なのです。
教会成長という言葉は、見れば分かるように教会という言葉と、成長という言葉が組み合わされて出来たものです。厳密に見ていくならば、教会とはキリストを頭としたクリスチャンの群れです。建物でもなく、仲良しクラブでもありません。
明確な使命を持って、呼び集められた群れ、生きた有機体なのです。ですから、健康であれば成長していくものなのです。
そこにわざわざ成長という言葉をつけてしまったところに、この言葉を作った人々の意図が見えてくるような気がします。
本来、神の領域だったものを人の業、人間の営みにしようとしたのです。教会成長だけでなく、人の作ったものに真理など、ありえないのです。そこには唯一のものは存在しません。
ただ、何かをしていく時には方法論が必要になってくるのです。そして、その方法論には様々なものがあるのです。
教会成長についての方法論が書かれている書物がたくさんあります。それらを読むと「教会が成長するための真理はただ一つ、祈ることである」とか「御言葉に忠実であることだ」とか、一見するともっともらしい、非常に聖書的に思えることが書かれています。
しかし、それらは真理ではありません。方法なのです。神は多様性を好まれます。
一人ひとりの人間を個性豊かに作られたようにバラエティに富んだ方法を用いられるのです。ですから色々な教会があるのです。普遍的な教会もあるし、常に変化し続ける教会もあるのです。それを見て神は喜んでおられるのです。
【献身神話】
もう一つの神話は、献身神話というものです。私たちが聖書を読み、そこに書いてある事柄を律法的に受け止める時、福音は良き知らせではなく、命令になってしまいます。
そして、そこに求められるものは自己犠牲と忠誠心なのです。この自己犠牲と忠誠心も、聖書的な言葉です。
福音の真理に従って理解するならば、問題はありませんが、律法的に理解すると、自己犠牲的な信仰でなければ、神は喜ばれないとか、忠実に従わなければ、神の国に入れない、といったような極端な考え方になってしまいます。
自己犠牲や忠誠心がいらないと言っているのではありません。その背景に律法主義的精神論が入ってくると、それは恵みではなくなってしまうということを言っているのです。
献身神話と言われるものは、とにかく自分を犠牲にして、徹底的に神に従い抜きなさい、御言葉に忠実であるということは、何も考えずに、ただ従うことだということを人に強要する事なのです。そうなると、これは福音ではなく別の何かに変わってしまいます。
神が求められる自己犠牲とは自分が苦しむことではありません。神のために賢く働くことなのです。賢く働くというのは知恵を用いた働き方であり、この知恵とは神から与えられる賜物なのです。神から与えられた賜物であるならば、それを積極的に用いていかなければなりません。
昔の運動部と今の運動部では、練習方法がずいぶん違います。私が中学生の頃は精神論の世界で、とにかく走る事が第一で、1年生はひたすら走らされました。しかし、今は成長期の中学生が限界以上に走ると体を壊すという事が医学的に検証されました。また、練習中に水を飲むことも禁じられていました。我慢して、耐え抜くことが美徳とされていたのです。しかし、今は熱中症のこともあり、水分補給することが大切だと言われています。この進歩は知恵を用いた結果です。
しかし、信仰の世界だけは、いまだに旧態依然としていて50年前のことが、今も当然のこととしてまかり通っているのです。真剣に知恵を用いて検証しなければなりません。
【実が残るために】
それでは聖書はどのように語っているのでしょうか。今日の箇所には一方的な神の選びが語られています。そして、選ばれた私たちの使命は実を残すことなのです。
自分のことだけ、自分たちの世代のことだけを考えているのではありません。今を含めて、これから先のことに目を向けているのです。
先程から言っている律法主義的精神論だと、神に選んでもらうために頑張らなければなりません。出来る限りの努力をして神に選ばれるような人間になれということです。
戦後の日本の歴史をみるならば、ずっとこのような精神主義が続いてきました。もちろんそれによって今の繁栄があるわけですから、100%否定はしません。しかし、信仰の世界にあっては別です。頑張らせて、疲れ果てさせ、燃え尽きさせるのではありません。
1970年代後半に「燃え尽き症候群」などという言葉が流行りましたが、神は私たちがこの地上にいる何十年かの間にとにかく頑張って、燃え尽きる事を望んではおられません。
さらに選ばれたものには、実を結ぶ事と実を残す事が求められています。そして重要なのは実を残すことです。そのためには様々な経験から学んでいく必要があるのです。
経験から学ぶということは、聞くという行為から始まります。つまり、交わりの中で学び合うのです。学び合う時、尊敬と信頼が芽生え、そこに愛が表されるのです。
量ではなく種類として、たくさんの実を残してきた教会から私たちが学ぶべき事がいくつかあります。それが原則です。
その原則は互いに愛し合うことです。ここから始まり、ここに行き着くのです。そして、どうやって愛し合っていくのかというプロセス、過程が大切なのです。一足飛びに健康な教会にはなれません。そこに行き着く過程が大切なのです。
最後に、その方法です。同じ事を何も考えずにやり続けるという事には、意味がありません。昔は有効だったけれど、今は効果がない事もあります。それを取捨選択するのは各教会に委ねられているのです。だからこそ目的を明確にしていかなければならないのです。
讃 美 新生559 わが主イエスよ 主の晩餐 献 金 頌 栄 新生673 救い主み子と 祝 祷 後 奏