前 奏
招 詞   イザヤ書6章9節
讃 美   新生 13 ほめまつれ 主なる神
開会の祈り
讃 美   新生464 主が来られて 呼んでおられる
主の祈り
讃 美   新生137 うみべの野で
聖 書   マルコによる福音書6章7~13節
               (新共同訳聖書 新約P71)

「弟子の派遣」             マルコによる福音書6章7~13節

宣教者:富田愛世牧師

【弟子の派遣】

 今日は7節から13節までを読んでいただきましたが、新共同訳聖書の小見出しは、6節の後半から「十二弟子を派遣する」となっているので、そこから読む方がよかったのですが、そうすると週報などの表記に「6b」というように書かなければならなくなり、ややこしくなってしまうので7節からにしました。また、こういう説明を加えたほうが印象に残ると思いましたので、そのままにしてしまいました。

 さて、前回の箇所でイエス一行は、故郷であるナザレに行き、そこで神の国についての宣教をしましたが、人々はイエスに向かって「大工のくせに、何を偉そうにしゃべっているのだ」と言って拒否したことが書かれていました。きっとイエスは落ち込んでしまったのではないかと想像してしまいますが、聖書を読んでみるとそうでもないようなのです。

 6節の後半に「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった」と書かれています。イエスの行動というものは常に前向きで、ハッキリとした目的に向かっていたように思えます。

そして、その目的とは福音を宣べ伝えることで、そのために様々な方法を用い、新たな場所に出て行かれたのです。

ここでの新しい方法とは、弟子を遣わすという方法です。自分の代わりに誰かを遣わすという時、私たちが考えるならば、能力のある者を遣わすか、または、しっかり訓練してから送り出そうとするのです。

しかし、イエスが遣わした12人の弟子たちに能力があったとは思えません。彼らは不完全な者で、失敗を繰り返すような者たちでした。

聖書を見る時、神の業というのは必ずと言っていいほど不完全な者たちを用いられるのです。なぜなのでしょうか。一つの答えは「人は人である限り、完璧ではない」という事です。

 そして、もう一つの答えとしては、この不完全な弟子の姿こそが教会の姿だということなのです。神から大切な使命を担わされていて、何とかその使命を果たしたいと努力はするものの、どこかでボロが出てしまい失敗してしまうのです。

【弟子に与えられるもの】

しかし、イエスはそんな弟子たちをただ放り出すのではありませんでした。彼らを二人ずつ組にして、さらに汚れた霊に対する権能を与えてくださいました。

二人ずつというのは、お互いにパートナーが与えられたということです。一人がつまずいてしまった時、もう一人が支え、励ますことができるのです。また、孤独は不安を生みますが、二人でいることは不安を消し去ります。

また二人ずつということはユダヤ的な意味も込められているのです。それは何か重要な事柄の証人になる場合「2人または3人の証人によって」という言葉が民数記35章や申命記17、19章に出てきますし、ヨシュア記2章では、エリコの町を偵察に行く時、2人の斥候を遣わしているのです。

証言等の信憑性が2人以上の証人を必要とするわけで、彼らの語る神の国の福音についても2人で行くことによって、より信頼度が高まったという事なのです。

またイエスは弟子たちに汚れた霊に対する権能を授けられました。当時はどんな病気も悪霊によって引き起こされると考えられていました。また、病気だけでなく、道徳的、社会的混乱を引き起こす力も悪霊の働きだと考えられていたのです。

そして究極的に悪霊の働きというものは人間から人間らしさというものを奪い取り「非人間化」をもたらす力なのです。

イエスの目的は悪霊の支配から人間を解放し、神に立ち返らせることでした。この目的を達成するための力が、汚れた霊に対する権能であり、それ以外の物質的なものは、第一に必要なものではなかったのです。明確な目的があれば、必要なもの、すべき事、そういったものは自ずと限定されてくるのです。

【旅の道具】

次にイエスは旅に必要なものとして「杖と履物」だけを持つように命じました。これらは宣教のために必要な道具を象徴しているということなのです。

「杖」というのは旧約聖書を読むと神の業が行われる時によく登場します。有名なのはモーセの杖です。出エジプトの奇跡の中でいつもその杖が登場します。

また、羊飼いの持ち物として、その杖は欠かせないものです。ですから、ここで杖が書かれているのは羊飼いの働きを象徴しているのではないかと思われるのです。そうするならば宣教という働きは羊飼いの働き、つまり、迷い出た、迷子の羊を囲いの中に戻す作業だという事なのです。失われていた魂をもう一度、呼び戻すこと、その情熱が「杖」なのです。

そして「履物」というのは歩き続けるために必要な道具です。つまり、宣教の業というのは出て行くことだということを現わしているのではないかと思うのです。家の中にいてじっとしていては宣教の業を担うことはできません。やはり出て行くところに、人との出会いがあるわけですし、そこに宣教の業が起こるという事なのです。

ただ、現実には「今」ステイホームが叫ばれ、人との接触が制限される中で、出て行くということを考える時、発想を変えなければならないと思うのです。パラダイムシフトです。

「今」だけでなく、これからを考えるなら、様々な技術や道具を用いることが「履物」を履くということなのです。イエスの時代は足で出て行き、馬に乗り、車が登場し、現代においては出て行かなくても、出て行けるのです。デジタル技術を用いて広い世界に出て行って宣教の業を広げていくことなのではないでしょうか。

【派遣先】

10節以降の後半では遣わされた先でのことについて語られていますが、両極端な二つの例が出されています。

はじめに出てくるのは、行った先で受け入れられた場合です。受け入れられた場合は、その家に腰を落ち着けて、じっくりと宣教の業に励むことが勧められています。これはとても大切なことです。

語る者があっちに行ったり、こっちに来たりしていたのでは聞く方は落ち着いて聞くことが出来ません。しかしだからと言って、何が何でも、はじめに決めた所から動いてはいけないということでもないようです。

受け入れられないならば、足の裏の埃を払い落として出て行くことが勧められています。ここに出てくる「足の裏の埃を払い落とす」ということは、そのまま聞くと「もうあなたのことは知りません」というだけでなく「呪ってやる」というような印象を受けるかもしれませんが、そうではありません。

元々はユダヤ人が異邦人の地から帰ってきた時に、汚れたものを持ち込まないという意味があったようですが、ここでイエスが言おうとしていることは「私はあなたに悔い改めを勧告しましたが、受け入れてもらえませんでした。後は自分で悔い改めの時を持ってください」という事なのです。

「関係ないから地獄に落ちろ」という事ではないのです。私はやるだけのことはやりました。後は自己責任ですよという事なのです。

一度やり始めたら、最後までやり通す。初志貫徹が美徳として受け入れられていますが、聖書は何が何でも留まらなければならないとは語りません。状況に応じた柔軟な態度で宣教活動にたずさわることが勧められているのです。

今、私たち一人ひとりの信仰において、また、この教会において何が必要なのか、何を大切にしていかなければならないのか、考えていきたいと思います。



讃 美   新生382 立ち上がりてわれら
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏