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「かくされた力(土台)」 マタイによる福音書16章18節
宣教者:富田愛世牧師
【土台】
今日はこのマタイ16章18節を中心に教会の土台とは何かということをご一緒に考えてみたいと思っています。もちろん、大きな意味で言うならば、教会はイエスの体ですから、イエスご自身が土台であるし、御言葉が土台であるということは共通理解としておかなければなりません。その次の段階として、そして現実の世の中で教会を建て上げていくための土台とは何かということを考えたいと思っているのです。
例えば、家を建てる時、土台というものはとても大切であるということには、誰も反論はないと思います。計画的に家を建てていく時、どのくらいの家を作るかによって、土台の大きさは変わってきます。
ある教会が会堂建築する時、計画段階では分からなかったけれど、実際に土台作りのために穴を掘ったところ、水が出てきてしまったので、十何本も杭を打ち込まなければならなくなり、当初予算よりコストがかかってしまったという話を聞いたことがあります。
これは重要なことであり、無視できないことです。無視して建てようとするなら、途中で挫折してしまうか。それとも完成したとしても欠陥住宅が出来上がるということになるのです。土台が小さいと小さな家しか建てられません。それでは反対に大きな土台には大きな家しか建てられないのでしょうか。そんなことはありません。当たり前ですよね。大は小を兼ねるとも言いますように、大きな土台であっても、そこに小さな家を建てることはできるのです。もちろん大きな家も建てられます。
何が言いたいかと言うと、しっかりした土台さえあれば、その上に建てるものは、ある程度の自由が利くということなのです。土台さえしっかりしていれば、つまり目的がハッキリしていれば、時代や状況の変化に応じて、上に建てあげていくものを変えていく事が出来るということです。
この土台というものは外からは見えません。土の中に打ち込んだ杭を外から見ることはできませんが、この見えない部分があることによって、見える部分にある家は完成するのです。見えない土台は、見える家にとっての大きな力なのです。それこそ、かくされた力なのです。
【変えられた人】
さて、今日の箇所を見ると、ペテロという弟子が教会の土台だというのです。つまり、かくされた力だというのです。確かにペテロは元漁師でしたから、腕っぷしは強かったと思います。しかし、ここで言おうとしているのはそういうことではありません。なぜペテロがかくされた力なのか。それはイエスによって変えられたからなのです。
ペテロはイエスに出会う前は、ガリラヤの漁師で、名前をシモンと呼ばれていました。しかし、マルコ3章16節によると「こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた」とあり、ヨハネ1章42節では「そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―『岩』という意味―と呼ぶことにする」と言われた。」とあるのです。
つまり、シモンという男はイエスに出会った時に、イエスによってペテロという名前に変えられたのです。どうですか、もし今、誰かがみなさんのところに来て「あなたの事を~と呼びます」と言われてハイそうですかと納得できますか?私は高校2年の時にチャイナというあだ名を付けられました。顔が中国人みたいだからです。私にこのあだ名をつけたのはコングと呼ばれていたデッカイ奴でした。私の立場としてはコングに従ったほうが都合が良かったので、文句を言わずにチャイナで通しました。この関係は単純な力による支配従属の関係でしたが、イエスとペテロの関係は力ではなく、信頼関係だったのです。
シモンはペテロという名前を拒否することもできたはずなのです。親からもらったシモンという立派な名前があるのだから、勝手に名前を変えないでくれと言えたはずです。しかし、シモンはペテロに変えられることを恐れずに、受け入れたのです。つまり、イエスというお方を受け入れたということなのです。イエスと自分の関係の中で、自分はイエスに従うということを表しているのです。
このイエスに従うという信仰によって、ペテロは教会の土台、かくされた力となる事が赦されたのです。
【明確な目的】
ペテロへと変えられた土台は、イエスから「わたしの教会を建てる」という明確な目的を知らされることによって、さらに強固な土台へと変えられていくのです。教会にはペテロという土台が与えられています。しかし、多くの教会は明確な目的を見つけられないために、かくされた力を用いることができないでいるのです。
明確な目的は私たちにやる気を起こさせてくれます。何をすればよいのかが分からなければ、人は何もする気になれません。現代社会では、フリーターとかニートとか言われる若者が増えたと嘆く人がたくさんいます。しかし、嘆く前に明確な目的を提示できなかったことを反省するべきではないかと思うのです。物質主義や効率主義という間違った目的を示し続け、それらが破綻してしまった後、何が目的なのか誰も分からなくなってしまっているのです。今からでも遅くありません。ハッキリと明確な目的を提示していかなければならないのです。そして、私は教会がその先頭に立つことのできる存在だと思うのです。
そして、明確な目的は迷いをなくし、力を集中させるのです。迷うということについて、ちょっと視点を変えて考えてみるならば、それはしなくて良い事を知るということなのです。あれもしなければならない、これもしなければならないと私たちは思い込んでいます。しかし、本当にしなければならないことはそんなに多くはないはずです。たくさんの事を抱え込んで、しなければならないと思い込んでいるから優先順位をつけるのが困難になり、迷ってしまい、力も集中できなくなるのです。本当にしなければならないこと、つまり目的が明確になれば、迷う必要がなくなり、集中できるのです。
また、明確な目的があれば、他人と協力しやすくなります。明確な目的が無いから、私たちは些細なことで争ってしまうのです。多くの教会で起こる争いの元は、スリッパの色は何色にしようとか、週報のフォントは何がいいとか、牧師の車の色は何色がいいかとか、本当にそんなどうでも良い事だったりするのです。
そして、最後に明確な目的があれば、評価に対する恐れがなくなります。教会はどのように自分たちを評価するのでしょうか。他の教会と比較して評価するのではありません。「神が願っていることをしているか」ということで評価しなければならないのです。神が願っていることとは何でしょうか。それは、それぞれの教会に与えられている目的です。それぞれの教会が与えられた目的を果たしていくことが神の願いなのです。それが明確になれば恐れることなく、自信を持って神の前に、評価の前に進むことができるのです。
【私たちは?】
市川大野教会の現状はどうでしょうか。まず最初にハッキリとさせておくべきことは、誰が何と言おうが、イエスによって建てられた教会であると言うことです。そして、イエスから「お前はシモンではなくペテロだ」と言われ「お言葉どおり今日からペテロに変わります」という変化を恐れない信仰の土台に建てられているという事です。
一人ひとりを見ていくならば、やる気のある人もいれば、やる気の起こらない人もいるかもしれません。話の流れからいくと、明確な目的を持つことによって、みんながやる気を起こすと思われるかもしれません。しかし、誰がそのやる気をやる気だと判断するのでしょうか。人が判断すべきことではないのです。富田の目から見てやる気のない人が、神の視点からはやる気があると見えることもあるのです。その場合、どちらが正しいのでしょうか。もちろん神の視点です。
やる気が起こるとか、迷わなくなる、集中する、協力するといった現象は大切ですが、結果でしかありません。この世の効率主義は結果オーライかもしれませんが、教会は違います。結果にいたる過程、プロセスに目を向けます。結果によって人を裁くのではなく、互いに愛し合うことを大切にするのです。きちんとプロセスを押さえているならば、単純に結果によって人を裁くということはなくなるはずです。そして、プロセスを共有する中で、互いに生かされている事に気付き、愛されていることに気付いていくのです。
あれがダメ、ここができていないという評価は愛から生まれるものではありません。なぜなら、愛とは否定的な考えではなく、肯定的な発想を生み出すものだからです。出来ていない事とは、もしかすると今しなくても良い事ではないかと発想を変えるのです。また忘れている、出来ていないと裁くのではなく、そこに自分の助けが必要だったのかも知れないとふり返ることが大切なのです。
キリストによって変えられた者とは、揺るがない土台の上に立ち、明確な目的によって、進むべき道を知ることが出来るのです。ゴールをしっかり見ているので、揺れ動くこともありません。
讃 美 新生353 われは愛す 主の教会を 主の晩餐 献 金 頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の 祝 祷 後 奏