前 奏
招 詞   詩編98編1節
讃 美   新生 120 主をたたえよ力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生367 神によりて
主の祈り
讃 美   新生427 われらの主イエスを
聖 書   マルコによる福音書7章1~13節
                (新共同訳聖書 新約P74)

「手を洗おう!」            マルコによる福音書7章1~13節

宣教者:富田愛世牧師

【言いがかり】

 イエスは今日の聖書で「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」とファリサイ派の人々と律法学者たちに向かって語りました。

この言葉には「神のことばと宗教の対立」というとても大きなテーマが含まれています。今日はイエスがなぜ、このように語ったのか、その背景からご一緒に読んでいきたいと思います。

この出来事は、まずファリサイ派の人々と律法学者たちがエルサレムからイエスの元に集まったことから始まっています。イエスが活動されていた場所は主にガリラヤでした。このガリラヤと言うところは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、エルサレムから直線距離で12、3キロ離れた場所にありました。

宗教的には間にサマリヤがあり、商業的には交通の要所だったので、様々なものや文化が交わる場所でもありました。宗教的中心地エルサレムから見ると辺境の地として見下されていたのです。そんな辺境の地にわざわざ宗教的な指導者たちがやって来たのです。

彼らは「イエスのもとに集まった」と書かれているのですから、何かの目的があったと思います。それはイエスに言いがかりをつけ、これ以上目立った行動を起こすなとくぎを刺すために来たのではないかと思います。

【イエスの反論】

彼らのつけた言いがかりとは、イエスの弟子たちが昔の人の言い伝えを守らず、手を洗わずにパンを食べたと言うことでした。冷静に見るならば、まるで子どもの喧嘩と同じです。しかし、当事者たちにとっては真剣そのものだったのです。

この言いがかりに対してイエスは聖書を用いて反論します。私たちの信仰生活においても、あらぬ言いがかりを付けられることがあります。そんな時には聖書を用いて反論しなさいと言われることがあります。

実際に私もある保守的な伝道団体に所属していた時、そのように教えられました。一つの側面から見るならば、それは正しいことです。しかし、それが全てではありません。何に関しても、全て聖書の言葉によって対応することが正しいとは限らないのです。

それは誰かと対話していこうとする時、お互いの間に通用する共通言語が必要だからです。つまり相手の持っている「ことば」を共通言語として用いる必要があるのです。

イエスは群集に向かって福音を語られる時「譬え」を用いられました。それは群集との間にある共通言語だったのです。教会においても同じことが言えます。牧師ばかりの集まりに牧師以外の人が加わると、何を言っているのかサッパリ分からないという事がよく起こります。いわゆる神学用語ばかりで会話されてしまうのです。牧師たちが100%その言葉を理解しているかは、分かりませんが、実際そのほうが楽なのです。

礼拝におけるメッセージにも同じことが言えます。クリスチャンではない人を招いた礼拝ならば、教会用語というものを使わないようにしなければなりませんが、クリスチャンだけを対象にするならば、教会用語を用いることができるので、どれほど楽かと思うことがあります。

この箇所では、たまたま「聖書」がイエスとファリサイ派や律法学者との間での共通言語だったのですが、イエスはいつも相手の持っている「ことば」を用いられたというところに注目する必要があるのです。

【神の戒め】

さて、ここで問題になっているのは、神の戒めと昔の人の言い伝えということです。神の戒めとはモーセの十戒に代表される、律法と言われるものであり、神の言葉、聖書なのです。ただしここで言われる聖書とは旧約聖書の律法と預言です。

人はこの聖書に従って生活したいと願うわけですが、なかなかその通りには行かないし、具体的なところで迷ってしまうことがあるのです。

そんな時、神の具体的な指示が欲しいと求めるのです。牧師のところに寄せられる質問の多くは「こんな事をしてもいいのでしょうか」とか「こういう事は罪ですか」といったものです。質問者にとっては本当に切実な疑問であり、とても大切な事なのです。

そして、宗教家たちはその願いに答え、一つ一つの疑問に対するマニュアルのようなものを作ってしまうのです。ユダヤ教においても、そのようなマニュアルが作られました。それが、ここで語られる「昔の人の言い伝え」と言われるものです。

4節に「また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。」と書かれています。

これらは律法を守るために考えられた事なのです。こういったことが生活の細部にまで広がり、それを守ってさえいれば安心だという思いにとらわれてしまうのです。

このような考えが当たり前になってくると、人は神と自分との関係の中で、一つ一つのことを考えることを止めてしまい、言い伝えというマニュアルに従ってしまうようになるのです。

よく話題に上るカルト宗教といわれるものは、このようなマニュアルが事細かに整備され、さらに、マニュアル通りに行動しなければ、地獄に落ちるとか、崇りがあるというように恐怖を植え付け、人間の思考を停止させてしまうのです。

しかし、神の戒めとは人を束縛するものではなく、かえって自由を与えるものであり、恐怖を植えつけるのではなく、平安を与え、常に励ましと喜びを与え続けるものなのです。

【目的を見失うこと】

ユダヤ教における「昔の人の言い伝え」とは、いま説明したように、神の戒めを守るために考えられたものであり、人が豊かな信仰生活を送るために必要なものでした。

神の戒めとの関係で言うならば補助的な役割を担うことがその目的だったのです。しかし、時の経過と共に、本来の目的が薄らいでしまい、形式だけが残され、それが増えていってしまったのです。

11節に「コルバン」という事が引き合いに出されていますが、コルバンとは供え物という意味です。特に神への供え物を意味していたので、これを他の目的に流用することが出来ないということなのです。ですから、ここで語られることは両親を養う義務や責任があったとしても、経済的な必要がコルバンという言葉によって免除されるという事があったようです。

さらに、このコルバンというのは「神にささげられたもの」ではなく「ささげようとしているもの」だったようで、言葉の上だけの事として処理できたようです。

ある牧師は「この『コルバン』という言葉は人間のもっとも宗教的な言葉の象徴でもある」と語っています。つまり、今日において「信仰的である、福音的である、教会的である、神学的である、霊的である」と言っておけば立派な信仰者と見られるという事なのです。

私たちの祈りの言葉や証しの言葉、もっと言うなら「祈り」や「証」という言葉そのものが、何の目的や考えもなく語られるならば、そこには命がなく、死んだ言葉、死んだ信仰になってしまうのです。形だけの告白や信仰生活は神に近づいているかのように見えますが、実は神から遠く離れてしまうことになるのです。

形だけの祈り、形だけの証し、形だけの賛美、形だけの礼拝、私たちの周りにはもしかすると、そのような形だけのものが氾濫しているかもしれません。一つ一つ検証していくことは面倒くさいことかも知れませんが、価値のあることです。そして、形にとらわれない、心からの自由な信仰生活を送ることを神は私たちに望んでおられるのです。

讃 美   新生583 イエスにある勝利
主の晩餐
献 金   
頌 栄   新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷  
後 奏