前 奏 招 詞 ミカ書6章6節 讃 美 新生 120 主をたたえよ力みつる主を 開会の祈り 讃 美 新生345 シオンの都よああ素晴らしき 主の祈り 讃 美 新生426 語りませ主よ 聖 書 マルコによる福音書7章24~37節 (新共同訳聖書 新約P75)
「資源?ごみ?」 マルコによる福音書7章24~37節
宣教者:富田愛世牧師
【ティルスでのいやし】
今日の箇所は、先週の続きとなっていて、イエスと弟子たちは「そこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。」という言葉から始まっています。今まではガリラヤ地方にいたわけですが、ここでティルスの地方に向かわれました。
なぜティルスの地方に向かわれたのかは分かりませんが、続く言葉に「だれにも知られたくないと思っておられたが」とあるので、休憩するために行かれたのではないかと思われます。
しかし、そんなイエスの思いに反して、そこでも人々はイエスのことを聞きつけ「気づかれてしまった」ようなのです。さらに、そんなイエスたちのところに、けがれた霊につかれた、幼い娘をもつ女がやってきました。そして、イエスの前に願い出ているのです。
この時、彼女はイエスの足もとにひれ伏すという、非常に謙虚な姿勢をとっています。7章の前半に出てくる律法学者やファリサイ派の人々とは対照的な姿なのです。
彼女はイエスに向かって娘からけがれた霊を追い出して欲しいと頼みますが、イエスは不思議な答え方をしています。困っている人の願いは何でも聞き入れてくれそうなのですが、ここでは、自分の使命はユダヤ人に対するものだから異邦人のあなたには関わらないと拒絶するのです。
それに対して「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と、さらに食い下がるのです。今までユダヤ人たちの言いがかりに対して、負けることのなかったイエスも彼女の言葉には負けてしまいました。
新共同訳聖書は「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい」と訳されていますが、口語訳聖書では「その言葉で、じゅうぶんである」と訳されています。イエスにとって気持ちの良い負け方をした答えだと思うのです。
そして、直接その子に会ったり、触れたりしたわけではありませんが、言葉だけでいやされました。この女の人にとってはイエスの言葉だけで十分だったのです。
【デカポリスでのいやし】
さらに、イエスたちはティルスを去り、今度はシドンを通ってデカポリスに行かれました。普通、ティルスからデカポリスに行くならば、そのまま南東に下って行くのが近道ですが、なぜか北に向かってシドンを通ってガリラヤ湖の東側のデカポリスに行かれているのです。
このデカポリスという地方は、5章に出てくる場所で、悪霊につかれた男から悪霊を追い出し、その悪霊が2千匹の豚に入り、豚が湖に飛び込んで死んでしまったという出来事の起こった場所でした。
そういう事があったので、ここでは人々がイエスのところに悪霊につかれた者や病気の者を連れて来たという事が自然に起こったのだと思われます。
ここでは耳が聞こえず、上手く話すことの出来ない男がイエスの前に連れてこられました。するとイエスはこの男を群衆の中から連れ出し、その男の耳に指を入れ、つばきで舌を潤して「エッファタ」と言われました。
とても印象的な情景ですが、あまりにもリアル過ぎて、ちょっと気持ちが悪い気がしてしまいます。普段の状況で他の人が自分の耳に指を入れるなんて事を想像してみてください。ゾッとしませんか。でも、耳鼻科に行ったとするならば当然の行為だと思うのです。イエスにとっていやしの業というのは、ただ単に病から回復するということではなく、その人に触れるとか、関心を持つという事が大きな意味を持っているのです。
イエスはこの男をいやした後、誰にも言うなと口止めをされましたが、口止めすればするほどイエスの噂は広まったということです。この口止めという行為がとても大きな意味を持っているように感じます。ただ単に病がいやされる事がイエスの目的ではなく、病のために人々との関係から排除されてしまった人が、その関係を回復していくプロセスとしてイエスの業があることを意味しているのです。
【共通点】
このように2つの出来事は別々に起こりましたが、この24節から37節は一つの出来事として捉えていくことが大切だと思うのです。そして、この2つの出来事には共通点が3つあるのです。
1つ目は、どちらも異邦人だということです。そこには信仰的な自由さが現れています。律法や言い伝えによって不自由にされていない、信仰的に自由な姿があるのです。
2つ目は、イエスはご自身を隠そうとしたけれど、隠せなかったということです。ティルスでは休むために来たのに気づかれてしまったとありますし、デカポリスでは、その行為を隠すために口止めしたにも関わらず、噂が広まっていったということです。
これも自由な信仰と関係あるのですが、神の啓示というものは表面的なものではなく隠されたものなのです。しかし、自由な信仰の光に照らすならば、それは明らかにされてしまうという事なのです。
3つ目は、人々の賞賛による神の国の実現という事です。37節の「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という賞賛は耳が不自由で上手く話せなかった男のいやしに向けて語られていますが、全体の締めくくりと考えることも出来るのです。何もかも素晴らしいのですから、そこに神の支配、神が共にいてくださることを感じているのです。つまり、そこに神の国が実現しているという事なのです。
23節までの箇所にはユダヤ人が登場し、その律法主義的な頑なさのゆえに、イエスをキリストと告白することが出来ませんでした。告白するどころか、かえってイエスを敵対視し、陥れようとしているのです。
しかし、シリア・フェニキアの女に代表される異邦人は、律法に囚われない自由な信仰によってイエスを主、キリストと告白しているのです。もちろん直接キリストという言葉は出てきませんが、足もとにひれ伏し「主よ」と呼びかけることは、信仰告白と考えても構わないと思うのです。
また、手を置いていただきたいとお願いする態度も彼らの信仰を告白しているのです。彼らは知らず知らずのうちに、キリストの栄光が現わされる環境というものを作っていたのです。手を洗うか洗わないかとか、安息日にいやしをするかどうかを試すなどという宗教家たちの姿勢とは、まったく対照的な姿勢なのです。
【パンくず】
この物語全体を貫いているキーワードとして「パン屑」という言葉があります。パン屑というのは、まさしく「くず」なのです。パンが主であって、くずは残り物であり、捨てられてもかまわないものです。
後半にはパン屑という言葉は出てきませんが、耳が不自由で上手く話せない男が登場します。また、エルサレムから見るならばデカポリス地方は異邦人のけがれた地域です。関係のない場所、必要のない場所なのです。
シリア・フェニキアの女はイエスがユダヤ人のために働かれるというその使命を理解しながらも、なお「食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と食い下がりました。ユダヤ人にとっては、捨てても構わない「パン屑」が彼女にとっては大切な食料になるというのです。それは不十分なものではないのです。
同じマルコ6章後半に、イエスの話を聞きに集まった5千人以上の人々がお腹を空かせた時、5つのパンと2匹の魚によって全員のお腹を満たした記事がのっています。この後8章にも4千人以上を同じように満腹させた記事が出てきます。この時、パン屑や残りの魚を集めると6章では12のカゴいっぱいに、8章では7つのカゴいっぱいになったと書かれています。
人の価値観で見るならば「パン屑」は「くず」でしかありません。しかし、福音の光を通して見る時、人が「くず」として捨ててしまうものは、役に立たないものではなく、完全なものに変えられていくのです。イエスご自身が「家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった」とご自分を表しているのです。
讃 美 新生440 主イエスよ 主イエスよ
献 金
頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の
祝 祷 後 奏