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「しるしを求める愚かさ」 マルコによる福音書8章11~21節
宣教者:富田愛世牧師
【イエスへの挑戦】
さて、今日の箇所もいつものようにファリサイ派の人々が登場します。彼らは湖の東側、つまり、異邦人の土地から帰ってきたイエス一行を待ち構えるようにしてやって来ました。そして、イエスを試みようとして議論を仕掛けてきたというのです。イエスに挑戦しているのです。
その内容というのが、具体的には書かれていませんが、次に書かれている「天からのしるし」を求めるという事だったのではないかと思われます。
そこには当時の言い伝えとして、救い主、メシアが来られる時には、必ず「しるし」が伴うという事があったのです。そして、そのしるしというものは目に見える形で、はっきりと認識できるものと思われていました。ですから、イエスが救い主であるということの具体的な証拠を示せということだったのです。
しかし、具体的な証拠とは今までの奇跡と言われる業を見れば一目瞭然だったと思います。ファリサイ派の人々は何度もイエスの行う奇跡というものを見ていたはずですが、彼らはそれを認めようとしなかったようです。イエスは彼らの挑戦に対して、心の中で深く嘆いて「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。」と言われました。
彼らにとって重要なことは、内面の信仰よりも、外面的な行いやしきたりに忠実であることだったのです。ですから、イエスが安息日にその規程を破り、人をいやしたということは、しるしとして認めるより前に、規程違反として映り、そこで思考が停止してしまったのです。ここではイエスはファリサイ派の人々の挑発にのらず、その場から引き下がり、もう一度舟で向こう岸、つまり異邦人の土地へ向かわれました。もうあきれ果てたのか、失望してしまったのか分かりませんが、彼らとは関わらないようにされたのです。
【ファリサイ派の人々のパン種】
ファリサイ派の人々の心の頑なさにあきれ、弟子たちと一緒に向こう岸へ向かわれるイエスですが、舟の中では弟子たちも、全く的外れな話題に夢中でした。それは、イエスにとっては「どうでもいいこと」でしたが、パンを持ってくるのを忘れたということだったのです。
そして、イエスは弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と忠告されました。
ご存知のように、パン種というものは少量であってもパン全体を膨らませる力を持っています。そして、ファリサイ派の人々というのは、悪い習慣ではなく、正しそうに見える習慣を大切にしていた人々です。
一般的には決して悪い人ではありませんでした。それどころか、正しい人々と見られ、頑固でとっつきにくいところはあったかもしれませんが、誰からも批判されるような信仰生活は送っていなかったと思います。
ひいき目で見るならば、模範的な信仰者としてまかり通っていたようです。しかし、自分たちの思い込みによる正しさのゆえに、他の人々を裁くという面を持っていたのです。
外面的には敬虔さを強調していましたが、それを支えていたのは律法主義であり、内面の心や気持ちとは関係なく、とにかく決められたことを守り、それをこなしていく事によって、外見を繕っていたのです。
その姿は信仰的に見えるかもしれませんが、実のところは、律法を守るということに対する自己満足に身を委ねるだけの生活だったのです。
イエスが忠告しているのは、そのように「自分は正しい」と思い込む事は、はじめは些細な思いだったとしても、その思いに酔ってしまうならば、いつしか、人間の思考を停止させ、習慣化された宗教行事を守り、こなしていく事だけになってしまう事への危険性だったのです。
そのような信仰は、神への感謝や喜びという事が薄れてしまい、義務感や見栄だけの貧しいものになってしまうのです。もっと言うなら、信仰と呼べるかどうかさえ、疑わしくなってしまうのです。
【ヘロデのパン種】
次にヘロデのパン種にも警戒しなさいとあります。ヘロデというのは、ユダヤ地方を治めていた王様の名前です。
以前、マルコ福音書6章を読んだ時にも「ヘロデ王」の名前が出てきましたが、イエスが誕生した時に男の子を大量虐殺したのがヘロデ大王と呼ばれる王様で、イエスの時代は、その息子の一人ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方を治めていました。
このヘロデ・アンティパスはバプテスマのヨハネから自分の不品行について指摘を受けたのですが、その助言を受け入れ、悔い改めることをせず、結果的にはバプテスマのヨハネを殺してしまいました。
また、ヘロデ大王の孫にあたるヘロデ・アグリッパはペテロの殺害を企てたということが使徒言行録に記録されています。
ヘロデのパン種というのは、ヘロデ王朝の誰か個人を指すのではなく、このヘロデ王朝の本質を指していると思われます。それは国家権力を利用した政治的策略と力による支配を指しているのです。
バプテスマのヨハネに代表される民の声には耳を貸さず、自分の身内や自分を擁護する者のためだけに政治を利用するという愚かな統治を行ない、その政治的な姿勢にものを言えば、容赦なく叩き潰される、バプテスマのヨハネのように殺されてしまうという恐怖によって、人々は黙らされてしまっていたのです。
このような思いも、初めは小さなものだったとしても、やがてパン種がパン全体を膨らませるように、人の心の中に入り込むことによって、その人の心を支配していくようになるのです。
【まだ悟らないのか】
ファリサイ派の人々の挑戦から逃げ、舟の中で弟子たちに「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められたということには、共通のテーマが流れています。そのテーマとは、実は6章から続いていたものなのです。
弟子たちは目の前にあるパンに気をとられ、人々は目の前に表わされるしるしを求めました。これらは結果、現象でしかありません。問題に対して答えが出ているというだけの状態なのです。
仕事で言うならば、マニュアルに書いてあることだけをこなしている状態と言ってもいいと思うのです。
イエスが人の病を癒すという奇跡を行う時、何もなく突然癒されたのではありません。病を負っている人の話を聞き、どうして欲しいのかと尋ねられました。そして、ある時にはその人の信仰を見たのです。
病が癒されるための、一つ一つの過程をイエスは大切にされました。ここに大きな意味があるのです。そして、その結果として、ある時には病気が癒され、また、病気の癒し以上に大切なことがあり、それを示されたこともあるのです。
人はどうしても目の前に起こる「しるし」を求めてしまいます。しかし、それはとても愚かなことであるとイエスは私たちに示しておられるのです。
とても挑戦的な言い方ですが、私たちはこの聖書を読む中で、ファリサイ派の人々と言われる人を誰だと思っているでしょうか。私は現代における敬虔なクリスチャンにその姿を見るのです。
キリスト教の長い歴史の中で1500年経った頃、宗教改革が起こりました。そこにはキリストの教え、聖書に忠実というよりも、カトリック的な教義や儀式、マルコ福音書で言うなら律法や昔の人の言い伝えに忠実な宗教家たちがいたということです。
そこからキリストの福音に立ち返ろうとしたグループが今のプロテスタント教会です。しかし、今、プロテスタント教会も500年の歴史の中で、同じ事をしていないか検証する必要があると思うのです。
しるしを求めるということは、奇跡を求めることではありません。結果だけを求めて、その過程をないがしろにしてしまうことです。思考を停止させ、決まりごとを守り、行事をこなす事なのです。イエスと自分の関係の中で、対話していくことを怠るならば、信仰が弱ってしまうのです。
先週「聖書に書かれている奇跡という出来事に対して言うならば、そこには説明ではなく応答が求められているのです」ということを話しましたが、ここでも同じことが求められています。
19、20節でイエスは奇跡の結果を示しています。これらの事柄に対して、どう答えていくのでしょうか。ただ御前にひれ伏して「あなたこそキリストです」と答えることしか、私たちには出来ないのです。
讃 美 新生514 めぐみの主は 献 金 頌 栄 新生668 みさかえあれ 祝 祷 後 奏