前 奏 招 詞 ハバクク書2章20節 讃 美 新生 8 主の呼びかけに 開会の祈り 讃 美 新生153 エッサイの根より 主の祈り 讃 美 新生180 イエスがこころに 聖 書 マルコによる福音書8章27~30節 (新共同訳聖書 新約P77)
「あなたはメシア」 マルコによる福音書8章27~30節
宣教者:富田愛世牧師
【フィリポ・カイサリア】
この箇所はイエスの宣教活動において、重要な分岐点になっています。文書の作り方に「起承転結」というのがありますが、それに当てはめるなら、起と承が終わって、この後、転と結に向かっていくのです。
1章から8章26節まではガリラヤでの活動が中心でしたが、ここからはエルサレムに視点が移っていきます。
そのような時にイエスは弟子たちと一緒に「フィリポ・カイサリア地方の方々の村に」出かけて行ったのです。
なぜフィリポ・カイサリアなのかというと、そこにも理由があったようなのです。このフィリポ・カイサリアという地方はガリラヤ湖の北に位置していて、今のゴラン高原と呼ばれている地域なのです。
ここからはガリラヤ湖を見ながら、その先にあるエルサレムまで見渡すことが出来たそうです。
イエスは今までの歩みを振り返りながら、その先にあるエルサレムへの歩み、そして、十字架への歩みについて弟子たちに伝えようとしていたのです。
【風評】
イエスはこのフィリポ・カイサリア地方の旅の途中で、弟子たちに向かって「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられました。
弟子たちは自分たちが耳にした噂、評判を報告しました。
バプテスマのヨハネの再来だという人やエリヤだという人、預言者の一人だという人もいるということでした。
ある人は実際にイエスに出会い、その時の印象を語ったのだと思いますが、多くの人たちは会ったことのないイエスについて風評として広がっていた噂をまことしやかに語っていたのだと思います。
バプテスマのヨハネの再来だという人たちは、死んだ人間が復活すると思って、そう言っていたのでしょうか。エリヤだという人たちは、聖書の預言通り、メシアが来る前にエリヤがもう一度来ると思っていたのでしょうか。預言者の一人だという人は、イエスの言葉を預言者の言葉として信じ、受け入れていたのでしょうか。
たぶんこのような風評に流されていた人たちは、無責任に言いたいことを言っていただけに過ぎないのだと思います。
これらの評判は無責任な人たちの、無責任な噂でしかなかったのではないでしょうか。
【責任ある言葉】
そんな無責任な評判ではなく「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とイエスは弟子たちに尋ねられました。
しかし、そのような質問を受けた弟子たちも、実のところ、風評に流される一般民衆とそれほど変わらなかったはずです。
8章16節以下では、イエスの語ることを理解せず叱責されているのです。他の人たちよりは理解していたかもしれませんが「ぼんやり」としかイエスが見えていなかったのです。
続く22節からのベトサイダでの盲人の癒しのように、初めは「ぼんやり」としか見えていなかったとしても、イエスはもう一度、両手をその目に当ててくださるのです。
世間の風評、噂ではなく「あなたは」という直接的な迫りの言葉としての質問を弟子たちに投げかけられたのです。
それに対して、弟子たちを代表するような形で、ペトロは「あなたは、メシアです」と答えました。
この答えは、誰が言ったかわからないような無責任な言葉ではなく、責任ある言葉としての返事なのです。
弟子たちは、弟子たちなりに「ハッキリ」とイエスが誰なのかを見ることができたのではないでしょうか。だから「メシアです」と答えることができるようになったのです。
【イエスの求め】
このようにイエスが私たちに求めているのは、責任ある告白なのではないでしょうか。
もちろん、責任といっても、それが救いの条件になるわけではありません。私たちに取ることのできる責任には限界があります。最終的な責任などとれるわけもないと思います。
責任ある信仰告白でなければ、救われないならば、それは無条件な救いにはなりませんから、そういうことではありません。
風評に左右されて、あの人が言っているから、私も。とか、その場の空気を読んでそう言っておこう。などというような同調圧力に屈した形での告白には意味がないということです。
イエスが求めている、責任とは、自分だけで負おうとするものではなく、一緒に担うよと語られるイエスの言葉に従うということなのです。
自分だけでは担いきれないとしても、それを私のところに持ってきなさいと招いてくださるのです。その招きに答えることを、イエスは求めておられるのです。
讃 美 新生149 来たれやインマヌエル 主の晩餐 献 金 頌 栄 新生668 みさかえあれ 祝 祷 後 奏