前 奏
 招 詞   イザヤ書40章8節
 讃 美   新生 3 あがめまつれ うるわしき主
 開会の祈り
 讃 美   新生 16 み栄えあれ愛の神
 主の祈り
 讃 美   新生519 信仰こそ旅路を
 聖 書   マルコによる福音書9章30~37節
                (新共同訳聖書 新約P79) 

「大切な存在」            マルコによる福音書9章30~37節

宣教者:富田愛世牧師

【イエスのユーモア】

 今日の個所で、イエス一行はガリラヤを通ってカファルナウムへ行こうとされていました。その途中、イエスは2回目の受難予告をされています。31節を見ると「人の子は人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と語りました。

しかし、弟子たちにはその言葉の意味が分かりませんでした。意味が分からないながらも、恐ろしくてそれ以上なにも尋ねることもできなかったようです。肝心なことについては何も話すことができなかった弟子たちですが、本当にくだらないことで、道々議論していたようです。

イエスは弟子たちをはじめ人々に何かを教えるとき、頭ごなしに命令するのではなく、多くの場合ユーモアを交えて、その人自身が気付くように語られました。

この箇所でも弟子たちが道を歩きながら「誰が一番偉いか」と論じ合っているのを知っていながら、「お前たち、そんなことを論じ合ってはダメだ」と頭ごなしに否定するのではなく、あえて「何を話していたのか」と質問されました。

まず受け入れるということを大切にされていたのです。

【価値観の逆転】

自分たちの愚かさに気づかされた弟子たちは、何も言えずに黙っていたようです。そんな弟子たちに対して、イエスは福音を語られました。

弟子たちは「だれがいちばん偉いか」と語っていましたが、偉くなりたいという思いそのものが悪いわけではありません。偉くなりたいという思いは、レベルの大小はあるでしょうが、すべての人間の中にある思いなのではないかと思います。

それが向上心となって、人は成長していくのだと思うのです。ただ、右肩上がり的な向上心だけだとするならば、それが極端になると、人を蹴落として上へ上へという思いに囚われてしまう危険性があるのではないでしょうか。

それに対して、イエスは発想を変えるようなことを話し始めました。それは、偉くなりたいのなら、まず仕える者になりなさいということなのです。

一般的な「偉い人」というのは、人に仕えられる人かもしれません。人に仕えられる時、仕える人が仕えて当然と思うのと、仕える人の気持ちを汲んだうえで仕えてもらうのとでは、違ってくると思います。

そんなこと関係ない、ビジネスとして割り切れ、というのが現代の風潮かも知れませんが、本当にそれで人との関係性が保たれるのでしょうか。

【存在に価値がある】

そもそも「偉い」とはどういうことなのでしょうか。私たちの周りにいる「偉い」と言われる人はどのような人たちでしょうか。

「先生」と呼ばれる人たちが、もしかすると「偉い」人たちなのかもしれません。学校の先生は学問に長けた人でしょう。医者は医学の専門知識を持った人でしょう。弁護士は法律の専門知識があります。国会議員も「先生」と呼ばれますが、何があるのでしょうか。

もしかすると、偉くなるということは「何かが出来る」ということだと私たちは思っているのではないでしょうか。

しかし、神の目から見て「偉い」ということは必ずしも何かが出来ることではないのです。イエスの発想はいつでも神の目から見てという所にあります。

なにかが出来るとか、できないとかは結果であり、何かが出来ることとは付加価値的な事柄なのです。

イエスは36節で、一人の子どもを抱き上げ、このような子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れ、さらに神を受け入れるのだと語りました。

本当に大切なことはその存在そのものなのです。

【このままの姿で】

何故ならば、神は私たち一人ひとりを尊い存在として創ってくださったからです。なぜ尊い存在なのかというと、それは、神が愛する対象として人間を創ってくださったからなのです。

天地創造の最後に人間を創り、人間を含めたすべてを見て「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と語っているのです。

イエスが私たちを愛し、受け入れてくださったのは「何かが出来る」からではありません。あなたの存在そのものが大切な、愛すべきものなのです。

神を受け入れ、イエスを受け入れるという時、私たちは「良い人」になって神のように、イエスのように人を愛さなければならないと思ってしまうかも知れません。しかし、イエスは私たちに「良い人」になることを望んでいるのではありません。もちろん「良い人」になることは悪いことではありません。そうなれるならなった方がよいでしょう。

しかし、良い人になれると勘違いすることの方が、もしかすると愚かなことかもしれません。ルカ福音書18章9~14節に

「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」とあります。

良い人にはなれない。愛せない人がいる。それが罪ある人間の本当の姿です。ただそこで自分には愛せないあの人も、イエスは愛しておられる、その事を覚えておくことが大切な一歩なのです。

 
 讃 美   新生455 われに来よと主はいま 
 献 金   
 頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
 祝 祷  
 後 奏