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「永遠の命を受けるため」 マルコによる福音書10章17~31節
宣教者:富田愛世牧師
【金持ちの男】
はじめに繰り返しになりますが、この箇所の背景から思い出していきたいと思います。9~10章にかけて弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いかを競い合い、それに対してイエスが小さな者こそが神の国において価値があることを語られました。
実はこの小さな者に価値があることのクライマックス的な箇所が、13~16節に書かれているわけですが、11月8日に「こどもたちの成長を感謝する礼拝」で取り上げたので、今回は飛ばします。しかし、今日の箇所にも同じ思想が流れていて、それに続けてここが語られていることに意味があるということを覚えて読んでいきたいと思うのです。
17節は「イエスが旅に出ようとされると」という言葉から始まっています。これはイエスがエルサレムへの道を具体的に歩み始めた時だということを表しているのです。前に8章27節からお読みした時に「ここが一つの山場で、ここから新しい展開が始まる」と言うことをお話しましたが、その具体的な行動がエルサレムへの旅立ちという事なのです。
そんな時に一人の男がイエスの前に現れました。私たちは聖書を読んでいるので、すぐに結果が判ってしまい、最終的にこの男がイエスの前から去って行ってしまう事を知っているので、そういう色眼鏡でこの男を見てしまいがちです。しかし、この男とイエスとの関係を注意深く見ていくならば、もう少し違った面が出てくるのです。
ここを読むと彼はイエスの元へ「ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」のです。ここに彼のイエスに対する非常に謙虚な姿というものを見ることができるのです。
彼は金持ちであって、最終的にお金を捨てることができず、イエスの元を去るわけですから、傲慢な金持ちであるかのように思われてしまうことがありますが、決してそんなことはなかったと思うのです。とても謙虚で、まじめで、真剣だったと思うのです。真剣だからこそ、去ってしまうと言うこともあるのです。
彼はイエスに対して永遠の命を受けるために何をすればよいのかを尋ねました。この質問と言うのは、当時のユダヤ教徒の中では一般的に行われていた質問なのだそうです。彼が「善い先生」と呼びかけるようにラビと呼ばれる先生がいて、そんな先生たちによって律法的な行為というものが作られていたようです。
【戒めを守る】
彼の質問に対してイエスは答えるわけですが、最初の答えは質問の意図とずれているような気がします。しかし、突き詰めていくならば、彼の質問自体が、ある意味で的外れな質問なのです。なぜならば、イエスが語る福音によるならば、何かをすることによって人間が永遠の命を得るのではないからです。
ですからイエスは「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と語り、神の絶対的な主権というものを教えようとされるのです。しかし、彼にはそれが理解できなかったようです。
そして、イエスは続けて十戒の後半部分を思いつくままに列挙し「という掟をあなたは知っているはずだ」と語ります。
ここで一つ注目したいことがあるのですが、イエスは十戒の後半を正確に語らず、思いつくまま、自由な発言として語るのです。もし律法主義者だったとしたら、一字一句まちがわないように語ったはずです。
イエスにとっての律法とは、律法主義的な頑なさではなく、生活の中に生きている律法なのです。
さて、イエスの答えに対して彼は「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えています。そして、自分にはもっと高度な律法的な行為が必要であると求めるのです。
こういうところから高慢な感じを受けるのですが、これは彼にとっての向上心の表れであり、高慢な態度という認識はなかったと思うのです。イエスは彼に対して、慈しみをもって全財産を売り払うように命じました。
この発言もイエスは意地悪で語ったのではありません。「彼を見つめ、慈しんで言われた」のです。つまりこの言葉は、彼には通じなかったかもしれませんが、イエスからの招きの言葉だったのです。
何に対しての招きかと言うと、それは貧しさへの招きでした。小さい者、弱い者、貧しい者と共にいてくださるイエスからの招きの言葉だったのです。しかし、彼はその招きに答えることができず、悲しみながら立ち去って行きました。財産をたくさん持っていたからだと聖書は説明しています。
【捨てること】
彼が去った後イエスは弟子に向かって、財産のある者が神の国に入ることの難しさを語られました。その難しさは「らくだが針の穴を通る」よりも難しいと言うのです。
ここでもまた、注意しなければならないことがあります。それはイエスが主張するのは、財産を持ってはいけないということではありません。金持ちの男は、戒めを守ることはできるが、財産を捨てることはできないと言いましたが、律法を守るという事は、具体的な働きへと招かれることなのです。
また、律法は死んだ言葉ではなく、生きた言葉です。一字一句まちがわないようにという頑なな律法主義ではなく、思いつくまま自由に口に出てきて、さらに行為として現れるはずです。
私たちにとっての財産とは何でしょうか。お金に限られるものではありません。彼がお金に代表される財産においていたのと同じような価値観を、ある人は家族に、友人に、学歴に、プライドにといったように様々なものや事柄においているのです。そして、イエスはそれらを捨てるように、私たちに命じるのです。
弟子たちはその言葉を聞いて「それでは、だれが救われるのだろうか」とつぶやきました。そのとおりだと思います。この弟子たちのつぶやきに反論する人間はおそらくいないと私は思っています。私自身もこの弟子たちと同じようにつぶやくと思うのです。しかし、イエスは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」と語るのです。
【永遠の命を受けるため】
この27節の言葉は究極的な結論であり、普通と言われる神経の持ち主ならば、もう何も言えなくなると思うのです。しかし、ペテロが口を開くのです。私はこのペテロという人は天然ボケじゃないかと思うのです。その場の空気を読んで言ったのか、読めずに言っちゃったのか、よくわかりません。でも、らくだが針の穴を通るより難しいと言われているのに「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と答えているのです。
この言葉はある意味では真実だったと思います。だからイエスもこのペテロの発言に対して、真摯に答えているのです。そして、その答えはさらに厳しいものになりました。弟子たちでさえ、次にイエスが語るようなものを捨てることはできませんでした。
私たちは自分で手に入れたと思っている大切なものを、イエスのために捨てることができません。そして、そのことはイエスご自身が知っておられるのです。だから「神にはできる」と励ましてくださるのです。
神はこのように、いつでも永遠の命に至る道を用意して下さるのです。ただ、今のままで、その道を歩もうとするならば、非常に厳しい道のりで、途中で挫折してしまうでしょう。
イエスが「捨てなさい」と言われる、この世の価値観にしがみついているから、身動きが取れなくなり、厳しい道のりになってしまうのです。
イエスが最後に語った「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」という福音の価値観、福音の本質に生きる時、私たちはイエスが「捨てなさい」と言われたものが無価値なものだったことに気づき、捨てることができるようにされるのです。
そして、それらを捨て去った時、永遠の命への招きに答えることができるようにされるのです。
讃 美 新生628 われは主にみな捧ぐ 主の晩餐 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ 祝 祷 後 奏