前 奏
 招 詞   イザヤ書26章10節
 讃 美   新生 4 来りて歌え
 開会の祈り
 讃 美   新生 41 いとも慕わしきイエスの思い
 主の祈り
 讃 美   新生388 主よわが心に
 聖 書   マルコによる福音書10章32~45節
               (新共同訳聖書 新約P82) 

「クリスチャンの驕り」       マルコによる福音書10章32~45節

宣教者:富田愛世牧師

【3度目の受難予告】

イエスが弟子たちと旅をする時、どのような形で旅をしていたのでしょうか。わたしのイメージでは、イエスが先頭に立って、弟子たちがついて行くというものだったのですが、もしかすると違っていたようです。

その日のイエスは「先頭に立って進んで行かれた」と書かれています。これを読んで、私には何の違和感もありませんでした。しかし、この様子はいつもとは違っていたようで、弟子たちは驚き、他の者も恐れを覚えていたのです。

イエスは弟子たちに自分の上に起ころうとしている受難について語られました。この箇所より以前に2回(8:31,9:12) 語っていますが、ここでもう一度、弟子たちに語られたのです。

それは、これからエルサレムへ登っていくが、そこで祭司長や律法学者たちに引き渡されてしまうというのです。祭司長や律法学者たちが捕まえに来るのではなく、引き渡されるというのですから、誰かによるということです。そして、その誰かというのは、この後イエスがエルサレムに入って行く時「ホサナ」と叫んで、喜び迎え入れた群衆たちなのです。

そして、死刑の宣告がなされ、異邦人に引き渡され、ムチ打たれ、殺されるというのです。ここでも祭司長や律法学者たちは直接手を下すのではなく、異邦人に引き渡すのです。

そこでは肉体的な苦痛はもちろん、精神的にも徹底的に侮辱され、笑いものにされ、屈辱的な仕打ちを受けた後、殺されるのだというのです。そして、三日の後に復活するというものでした。

今、この聖書を読む私たちは復活という出来事を知っているので、最後の「復活する」という言葉に希望を置くことができますが、弟子たちにとっては前半で語られる受難がショックとなって「復活する」という言葉は耳に入らなかったのではないでしょうか。

【ゼベダイの子たち】

先週の個所で、イエスが「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と語り、弟子たちが「それでは、だれが救われるのだろうか」とつぶやいた後、ペトロが「わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と答えたということで、ペトロは場の空気を読まない、天然ボケだと言いましたが、今日のところも同じような展開になっています。

ここではペトロではなく、ヤコブとヨハネが発言しているのですが、同じようにその場の空気を読んでか、読まずかは分かりませんが、とにかく突拍子もない願い事をイエスにしているのです。

この2人はペトロとアンデレの次にイエスの弟子となり、特別な場面ではいつもイエスの側にいたので、自分たちは特別な存在だと思い込んでいたのです。

9章2節でイエスの姿が栄光の姿に変わり「これはわたしの愛する子。これに聞け」という神の言葉がイエスに臨んだ時もペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人がその場にいたので、特別な存在だと思い込んでも無理はなかったのかもしれません。

ヤコブとヨハネの願いとは、特別な存在としての自分たちを、神の国が訪れた時にイエスに次ぐ高い地位を与えてくださいというものでした。

それに対してイエスは「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」と答えられました。ここにはイエスの価値観とヤコブとヨハネに代表される弟子たちの価値観の圧倒的な違いがあるのです。

それは、仕えられることを望むのではなく、かえって仕えることに感謝と喜びを持ちなさいということでした。

【他の弟子たち】

二人の願いを聞き他の弟子たちは腹を立てました。当然の事だと思うのですが、人が腹を立てるのはどういう時なのかということを考えると、当然の事ではないのかもしれないと思わされます。

ここで他の弟子たちが腹を立てた理由というのは、ヤコブとヨハネが抜け駆けをしたからだと思うのです。ヤコブとヨハネが当然の権利を主張したとするならば、誰も腹を立てる必要はないと思います。

しかし、この二人は当然の権利を主張したのではなく、抜け駆けしてイエスが栄光を受ける時、その右と左に座らせてくださいと願ったと感じたのです。つまり、他の弟子たち誰もが、イエスの右と左に座りたかったということなのです。

つくづく人間の愚かさを見せ付けられます。しかし、この出来事を自分自身に問う時、同じことが繰り返されるような気がします。

特に自分はクリスチャンですという私のような人間はこのことに注意しなければならないと思います。

日本社会においてクリスチャンは少数派ですから、一般的にはそんなことは起こりませんが、少数派だからこそ、教会の中では、自分たちはクリスチャンだという特権意識を持ってしまう可能性が強いと感じさせられます。

クリスチャン以外の人を「ノンクリスチャン」「ノンクリ」と呼ぶこと自体、上から目線になっているように感じます。

特別な存在とは、他人との比較ではなく、神との関係の中で尊い事柄となっていくのです。

【仕える者】

イエスは様々な場面で神の国の価値観について語られました。弟子たちも、また今こうして聖書を読んでいる私たちの教会もその事を学んでいますが、すぐにこの世の価値観が入ってきてしまうのです。

たとえ仕える者となったとしても「これだけ仕えたから、この功績が認められ、神の国では高い地位につける」と考えてしまうのです。もちろん言葉としてそんなことは出てきませんし、神の国での高い地位など望んでいませんという方も多いと思います。

しかし、私たちの中には徹底して仕える姿勢というものが欠けているのは紛れもない事実なのです。

イエスはそんな私たちの罪深さのために、今も仕える者として十字架を負い続けておられるのです。イエスの姿は、この世の価値観で見るなら「バカみたい」に映るでしょうし、イエスの宣教方法は「非効率的」に見えるかもしれません。

しかし、そのような姿を通して、イエス自身が「いと小さき者」として、弟子たちの前に、私たちの前に立ち続けてくださるのです。

そして、同時に小さな存在、見逃してしまいそうな存在を見つめ続けるイエスの眼差しがそこにあるのです。

 
 
 讃 美   新生453 主よわれは今ぞ行く 
 献 金   
 頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
 祝 祷  
 後 奏