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「生きている者の神」 マルコによる福音書12章18~27節
宣教者:富田愛世牧師
【サドカイ派】
今日の箇所は前回からの続きとなっていて、前回はファリサイ派の人々とヘロデ派の人々がイエスを罠にかけようとしてやってきましたが、今回はサドカイ派の人々がイエスのところにやってきました。
このサドカイ派と呼ばれる人々も聖書の中には時々登場します。サドカイ派という名前の由来はハッキリしませんが、ツァドクという祭司が旧約聖書には記録されていて、このツァドクの子孫だというところから、ツァドクがなまってサドカイとなったのではないかと言われています。
また、もうひとつ大変興味深い名前の由来がありまして、それは、紀元前4世紀にギリシャのアテネにひとつのグループがあったそうです。このグループは法律を一度作ったならば、それをむやみに変えてはいけないと主張する保守的なグループだったそうです。このグループのことを当時ユダヤ人たちが使っていたアラム語でサドカイと言ったそうです。
名前の由来はハッキリとは分かりませんが、とにかく祭司の家系からなるユダヤ社会における貴族階級だったということです。そして、モーセ五書と言われる創世記から申命記までに書かれている律法を第一のものとしていました。
その他の預言書や諸書は重んじなかったようです。また、先祖代々伝えられてきた律法や規律については、守るべきものとは考えていなかったそうです。サドカイ派も保守的ではありますが、ファリサイ派とは聖書の聖典性についての解釈において対立していたのです。
また、そのことから、復活ということに関しても、モーセ五書の中には、人は死んだ後に復活するという思想がなく、復活ということが書かれてもいないので、死者の復活を認めなかったのです。
【復活はあるか】
ここでサドカイ派の人々はイエスに質問を投げかけていますが、彼らの質問はファリサイ派の人々が投げかけた13節以下の質問のように、罠にはめるようなものではありませんでした。
サドカイ派の人々の質問はユダヤ教の伝承の中でボルートと呼ばれ、日本語にすると無作法という意味なのです。つまり、はじめから答えの決まった質問をして、相手をバカにするようなものだったのです。
この質問は、家系を残すため、子どもができずに死んでしまった長男のために、弟がその妻をめとるというレビレート婚と呼ばれるユダヤの習慣を極端に理解し、いかにナンセンスかということを引き合いに出し、復活など起こらないということを証明したものです。
こんなことになったら、世の中が混乱してしまうのだから復活はないという結論をサドカイ派の人々は持っていました。
しかし、イエスは復活はあるという立場に立ち「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と答えられたのです。このイエスの答えを聞く時、ドキッとさせられる人がいるのではないかと思います。私自身、ドキッとさせられます。
以前の私は「聖書信仰」という言葉に囚われていました。聖書信仰というあり方自体は悪いものではありませんが、私は思い違いをしていて、聖書には何と書いてあるのか、どこに書いてあるのかということに囚われていたのです。そして、あることについては、聖書に書かれていないから却下、というように判断していたのです。
しかし、本当にそれでいいのだろうかと思ったのです。もしかすると文字として聖書に書かれていないけれど、イエスの語る福音に照らしてみるなら、どうなるかということが大切なのではないかと思わされたのです。
サドカイ派の人々は文字として聖書に書かれていないことは否定しました。しかし、イエスが語る福音とは文字として聖書に書かれていることだけではありません。イエスの一挙手一投足、すべてが福音なのです。そして、私はこの福音に生かされている一人の人間なのです。だったら、見える文字としての聖書だけでなく、見えない、書かれていない聖霊の働きにも注意しなければならないのです。
【復活の時】
次に復活ということを考える時、復活とはいったい何なのかということを整理しておかなければなりません。サドカイ派の人々は現実の世界だけを見ていました。ですから復活後の世界を考える時も、今の世界と同じ事が繰り返されると思っていたのです。ここには埋葬の仕方によるイメージの違いもあったのではないかと思うのです。
日本では死後の世界を信じている人が多いそうです。ただし聖書的な死後の世界ではなく、輪廻転生としての仏教的な世界観なのです。そこには火葬という葬り方が影響しているように思えます。火葬してしまうわけですから、肉体は完全に灰になってしまいます。そうすると霊魂だけが命をもって、他のものに生まれ変わるという発想がスムーズに入っていくのではないかと思います。
パレスチナやエジプトではミイラにしていたわけですから、まったく同じ形で復活するという考え方が一般的に浸透していたのかもしれません。
しかし、イエスは神の力が働かれることを語ろうとされています。復活後の命というのは、地上の命とはまったく違ったものだということを説明しているのです。そこでは「めとったり、とついだり」することはないと言われています。今のこの地上と同じ世界ではなく、神の国において復活するのです。次に書かれている「天使のようになる」のです。
復活というのは神と共に過ごすことなのです。人間的な想像を超えた神の力が、私たちを包んでくれる、それが復活の希望となるのです。
【生きている者の神】
聖書を字面だけ追っていたのでは理解できないことがあります。復活についてもサドカイ派のように字面だけではなく、そこにいるイエスを見て、その声を聞いて、その手に触れていく時、気づかされていくことがたくさんあるはずです。
サドカイ派の人々が大切に守っているモーセの律法は、モーセが死んでからも人々に影響を与え続けています。また、アブラハム、イサク、ヤコブもそれぞれの時代に生き、そして、死んでいきました。
しかし、彼らは過去の人ではなく、ユダヤ人の心の中には生き続けているのです。なぜでしょうか。それは彼らを遣わされた神が生き続けているからなのです。大切なことは神が生きて働いておられるということなのです。
目に見えるものにだけ命があると考えることは、現実的かも知れませんが、信仰的には「思い違い」です。それは「聖書も神の力も知らないから」なのです。
字面だけで聖書を読んでいるという事と聖書を生きるということは、まったく別の事柄です。神の真理は聖書を生きる中で気づかされていくのです。
このやり取りの数日後、イエスは十字架に架かり、死に、三日目に復活されました。これは旧約聖書の預言者たちを通して伝えられた神の約束であり、信仰者の希望なのです。そして、キリストが復活されたという事が、神の国をこの世に示しているのです。
讃 美 新生296 十字架のイエスを仰ぎ見れば 献 金 頌 栄 新生673 救い主 み子と 祝 祷 後 奏