前 奏
 招 詞   コヘレトの言葉9章8節
 讃 美   新生  4 来りて歌え
 開会の祈り
 讃 美   新生 89 ここに愛がある
 主の祈り
 讃 美   新生261 み霊なる聖き神
 聖 書   マルコによる福音書14章1~11節
                         (新共同訳聖書 新約P90) 

「ナルドの香油」                      マルコによる福音書14章1~11節

宣教者:富田愛世牧師

【イエスの行動】

14章に入り、いよいよイエスの十字架への歩みが具体的に始まります。もちろん十字架への道と言っても、それはイエスが自分から好んで選んだ道ではなく、神の計画の中にあるわけですが、表面的にはイエスを取り巻く様々な人間の思惑が複雑に絡まり合いながら進められているわけです。

その中でも、特に律法学者や祭司たちといった宗教指導者たちは、自分たちが悪者にならないようにイエスを抹殺する方法を考えていたようです。

1節には「なんとか計略を用いてイエスを捕らえて殺そうと考えていた」とあります。この「計略」という言葉の原語には「だまし、裏切り、そして道を曲げる」という意味があるようです。

宗教指導者たちのとった行動は、まさしく「だまし、裏切り、道を曲げ」てイエスを捕らえ、不当な裁判によって十字架に架けているのです。

この計略は秘密裏に行われていたかもしれませんが、ユダの裏切りからも分かるように、人々の間では噂として広まっていたのではないかと思うのです。そして、この噂はイエスの耳にも入っていたと思います。

普通ならそのような噂が立っていたとするなら、そのようなところから逃げ出し、自分の身の安全を願うはずです。

しかし、イエスは自分の身の安全よりも神の国を宣べ伝えることや、自分を必要としている人の側に寄り添う事を大切にされ、それを実行しているのです。

3節でイエスは重い皮膚病を患っていたシモンの家に滞在しています。このシモンはイエスによって思い皮膚病を癒された人だと思われますが、それは、シモンがユダヤの共同体から排除された人であったということなのです。

この時にはすでに癒されているわけですから、人々との関係性は修復されていたかもしれませんが、シモンの心には傷が残っていたのではないかと思います。イエスはそのような人のところへ出かけられ、慰めを与えておられたのです。

【一途な献げもの】

そこにひとりの女性が入ってきました。この女性についてマルコ福音書は誰なのかを語っていません。同じような記事がマタイ福音書26章とヨハネ福音書12章にも記録されていますが、マタイ福音書はマルコ福音書と同じように、この女性が誰なのかについて触れていません。しかし、ヨハネ福音書はマルタの姉妹、マリアだと語っています。

ただ、ヨハネ福音書については、状況は似ているのですが、時期がマルコ福音書では過越祭の二日前となっているのに対してヨハネ福音書は過越祭の六日前となっているので、同じかどうかわかりません。さらにマルコ福音書は重い皮膚病を患っていたシモンの家ですが、ヨハネ福音書ではラザロの家が舞台となっているようで、マルタが給仕していたと記録されています。

このようにマルコ福音書は、この女性が誰なのかは語りませんが、この女性のしたことは、福音が宣べ伝えられる所で「記念として語り伝えられる」とイエスが語るように、とても重要なことだというのです。

この女性が何者かは分かりませんが、何をしたのでしょうか。ここには非常に高価なナルドの香油をイエスの頭に注ぎかけたと記録されています。

なぜそんなことをしたのでしょうか。ここにはその理由も書かれていません。しかし、イエスは「埋葬の準備をしてくれた」と語っています。結果として、記念すべき出来事となるわけですが、この女性にはそのような意図はなかったと思います。

そして、この女性の思いとは、イエスに対する一途な気持ちからだったのではないでしょうか。彼女は彼女にとって「できるかぎりのこと」をしたのです。

誰かの、何かの行為と比べるのではなく、彼女がイエスに対して何かをしたいと思い、できるかぎりのこととして、高価な香油を捧げたのです。

【心の狭い人々】

それを見ていた人々は「なぜ無駄使いをしたのか」と言って彼女を非難しました。そして、続けて「それを売って貧しい人に施せたのに」と言っているのです。

この非難する人たちは、彼女が「無駄使い」をしたというのです。しかし、この香油はこの女性のもので、自分のために使えばよかったはずなのです。イエスの頭に注ぐために買ってきたとは書かれていません。自分のために使っていれば、誰からも非難されなかったのです。

しかし、それをイエスの頭に注いだから「無駄使いをした」と言って非難されているのです。イエスの頭に注ぐことは「無駄使い」だから、それを有効利用するために、300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施せばよかったというのです。

教会の中にも何かを献げる時、似たようなことが起こります。ある人は自分と神との関係の中で、何かを献げるわけですが、それを見た他の人が自分の基準や常識に照らして「おかしい」と非難する時があります。

人にはそれぞれ、神から与えられた奉仕や献げものの仕方があるのです。それは他人と同じになりません。その人に与えられたものなのです。

イエスは彼女を非難する人々をたしなめ、6節にあるように「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」とそして「この人はできるかぎりのことをした」とほめておられるのです。

彼女を非難した人々は「貧しい人々に施せばよかったのに」と言いましたが、それに対してイエスは「貧しい人々はいつも、あなた方の側にいるのだから、いつでも彼らを助けることができるでしょう」と語りました。

本当に貧しい人々のために働いている人は、こんなことは言わないのです。

さらに9節にあるように「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と語られ、この女性を擁護しているのです。

【愛する者と裏切る者】

 さて、シモンの家にいた人々は、この女性を非難しましたが、そこにはどのような人々がいたのでしょうか。イエスの弟子たちも一緒にいたはずなのです。そして、弟子たちはどのように感じていたのでしょうか。

マルコ福音書には誰ということは書かれていませんが、ヨハネ福音書にはイスカリオテのユダが非難したと書かれています。それはユダがお金の管理をしていたけれど、そのお金を「ごまかしていた」からだと書かれています。

そのような流れから、この物語の表面を見ていくと、香油を献げたイエスを愛する女の人と裏切り者のユダという対比があるように見えます。

しかし、ユダもイエスを愛する一人であったことを忘れてはいけません。ユダの心の動きというものを見ていこうとするなら、この後、何時間あっても足りないくらいの考察になってしまうと思いますので、今回はさらっと見ていくだけにしますが、ユダもイエスを愛するが故に裏切ってしまったのだろうと思います。

ここに人間の愛の一途さと限界を見ることが出来るのです。しかし、聖書で「愛」という言葉が使われる時、新約聖書の原語であるギリシア語には4種類の「愛」という言葉が存在します。

一つ目は聖書が伝えようとしているアガペーという愛です。これは神の愛であり、見返りを求めない、真の愛だと言われています。二つ目は、ストルゲーという愛、これは家族愛に代表されるようなものです。三つめはフィリア、これは友情などと訳されることのある言葉で、絆、つながりのある者同士の中での愛です。そして、四つ目はエロースです。これは性愛と訳されることが多いのですが、見返りを求める愛と言っても良いのではないかと思います。

香油を献げた女性の思いは、見返りを求めないアガペーの愛に近いものだったと思います。それに対してユダの愛はどうだったのか。イエスに従った最初の頃は尊敬する気持ちも含めストルゲーから始まり、フィリア的な愛やアガペーの感情もあったと思いますが、最終的にはエロースの愛という感情の中で裏切ってしまったのではないでしょうか。

愛しているといっても、一つの感情ではなく様々な感情が複雑に絡まり、すべてを含めて愛しているのだと思います。今、私たちはどちらの立場にいるでしょうか。そして、どちらの立場を望んでいるのでしょうか。

  
 讃 美   新生652 ナルドの壺
 献 金   
 頌 栄   新生673 救い主 み子と
 祝 祷  
 後 奏