前 奏 招 詞 詩編33編1節 讃 美 新生 5 神の子たちよ 主に帰せよ 開会の祈り 讃 美 新生650 喜びて主に仕えよ 主の祈り 讃 美 新生104 雨を降り注ぎ 聖 書 マルコによる福音書14章32~42節 (新共同訳聖書 新約P92)
「心は燃えても」 マルコによる福音書14章32~42節
宣教者:富田愛世牧師
【ゲッセマネの園】
今日の舞台となるのは有名なゲッセマネの園です。ここはオリーブ山の麓にあり、イエスが祈るためによく来られた所で、弟子たちも連れてきていたようなのです。イエスと弟子たちにとっては「いつもの所」のような感じだったのではないかと想像します。
また、有名な箇所なので、絵画や音楽の題材としても、用いられています。よく教会の壁などに飾られている聖画と言われるものの中に、イエスが暗い森の中でひれ伏すように祈っている絵があります。たぶん皆さんも見たことがあるのではないかと思います。
なんとなく木がうっそうと生い茂った場所をイメージしてしまいますが、実際は違っていたようです。日本人がイメージする森のような所と実際のパレスチナ地方の森では木の種類や木の生え方は違っていて当然なのです。そういうことも含めて、本当はどのような所だったのかは、よくわからないようです。
たくさんの神学者たちがゲッセマネの園について研究していて3つくらいの有力な説があるようですが、真実と言うのは分からないようです。そして、たくさんの画家によって描かれている雰囲気とは違っていたと思われます。
現実の場所として、ここだ、あそこだと言うことではなく、最後にイエスが祈られた場所があるということを大切にして読んでいく時、それぞれのゲッセマネが与えられるのです。
うっそうとした森の中でもいいし、野原のようなところでもいいのです。最後の時だと知っていても、普段どおりに祈られたイエスに出会う場所が私たちにも与えられているという事を覚えておきたいと思うのです。
【時が過ぎ去るように】
さて、イエスは12人の弟子を招き過ぎ越しの食事をしました。その後、いつものように祈るためにオリーブ山に行かれたのです。しかし、この時にはイスカリオテのユダはすでにいませんでした。
食事の途中で抜け出して、祭司長たちの所に行き、取引をしてから案内役としてゲッセマネの園に向かう途中だったのではないかと思います。
イエスはゲッセマネの園に着くと、弟子の中から3人を選び、さらに奥へと進みました。その際、3人にはご自分の気持ちを伝えました。
聖書には「ひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた」と書かれています。聖書の中でイエスが恐れたり悩んだりする箇所はここ以外にはないと思います。
いつものように、ゲッセマネの園には来ました。でも、いざ祈りはじめるという時になって、このように恐れ、悩むということは、十字架という出来事の重さが出ているのです。
そして、イエスは3人の弟子に向かって「目を覚ましていて欲しい」と頼まれるのです。裏切ることが分かっている弟子たちに頼んでいるのです。頼りにならない者たちに、頼らなければならない事ほど、やり切れない事はないと思うのです。
私ならガッカリ感だけで投げやりになってしまうのではないかと思います。しかし、イエスは敢えて頼んでいるのです。
さらに、今度はその3人を置いて、一人で奥に進みました。イエスは「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈り、その苦しさを訴えます。しかし、そんな人間的な思いがあると同時に神の子として神に従う事の重大さも知っておられるわけですから、ここに大きな葛藤が生まれるのです。
そして、その葛藤の中から出てきた祈りの言葉が「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という祈りに集約されるのです。
【眠る弟子】
一方、苦悩するイエスとは対照的に、弟子たちは眠りに落ちていました。そんなペトロに「心は燃えても、肉体は弱い」とイエスは語ります。
この語りかけを私たちは、どのように聞くでしょうか。ペトロを叱っているのでしょうか。私はそうではないと思うのです。叱っているのではなく、ペトロに対する深い理解の心を見ることが出来ると思うのです。
肉体の限界というものは、人間にはどうしようもないものなのです。「心頭を滅却すれば火もまた凉し」という言葉があります。無の境地に至るならば、火であっても涼しく感じられるというように解釈されています。いわゆる精神修養的な考え方として用いられていますが、それでも限界を超えることなど出来ないと思うのです。
私は走ることが苦手なので、経験したことはありませんが、長距離を走っていると初めはきついけれど、ある程度の距離を過ぎれば、気持ちよくなるランナーズハイという状況があるそうです。しかし、だからと言っていつまでも走り続けられるわけではありません。
限界を超えたところにある、ある種の快感というものを人間は本能的に知っているのではないかと思います。しかし、それはとても危険な領域で、そこに入ると理性が弱くなり、命を失う危険性があるのです。
これは極端な例ですが、似たようなことを私たちはしているのです。限界点を少しずつ上げていこうと努力するのです。特に現代の日本社会では、そのような精神論が求められているような気がします。
スポーツの記録も「新記録が出た」なんて喜んでいて良い状況ではないはずです。私たちには限界を認めること、そして、限界の先には神の力が介在すると期待することが求められているのです。
イエスの目には誘惑に負け、眠ってしまうペトロの姿がいとおしく映ったのではないかと思うのです。
【時が来た】
そんな弟子たちを置いて、もう一度イエスは祈りに行かれました。そして、また戻って来ると弟子たちは眠っていました。
弟子たちはどう言えばよいか分かりませんでした。この「どう言えばよいのか、分からなかった」という言葉は9章6節でイエスの姿が変った時にペトロが発した「どう言えばよいのか、分からなかった」という言葉と同じ言葉です。
神の前で私たちは言葉を失うということを経験します。言葉が出てこない時は、黙っていればよいのです。神は人間の貧しい答えなど求めていません。ここでイエスは言い訳を求めていたのでしょうか。きっと違います。イエスは言い訳や答えなどを求めていたのではありません。ペトロが勝手にそう思っていただけなのです。
そして、もう一度祈りに行かれ、3度目に戻って来た時、眠りこけている弟子に向かって「時が来た」と語られました。イエスにとって、過ぎて欲しい時でしたが、来てしまいました。そして、それが神の計画だったのです。
私たちの生活にも満足出来る時と出来ない時があります。特に人の死や病気という出来事にぶつかる時、不条理を感じることがよくあります。
神のためにこんなに一生懸命やっているのにとか、何にも悪い事をしていないのに、なぜこんな目にあうのか、というようなこともよくあります。
なぜ、どうして、と言われても私にも答えはありません、分からないのです。しかし、神はそんな出来事を通して私たちに何かを教えておられるはずです。
イエスは「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」と言って、その不条理に見えることがらに向かって歩まれるのです。肉体的な弱さや心の弱さを理由に、その時を受け入れられないことがあります。しかし、神の計画は必ず成るのです。
讃 美 新生495 主よみ手もて 献 金 頌 栄 新生669 みさかえあれ 祝 祷 後 奏