宣教題 イエスの名のために
聖書  ルカ 9:46~48
 

 11月15日は七五三です。三才、そして、七歳になった女の子、五歳になった男の子の成長を祝う三つの祝い事が一つにまとまって、七五三が祝われるようになったそうです。七五三は、神社で行われる祝い事の神事ですが、日本では教会でもこの時期に「成長感謝」や「子ども祝福式」といった名前で子どもの成長を祝い感謝する行事が行われています。ところで、教会では子どもが生まれた時に「献児式」を行うことがあります。子どもを捧げる式、ということで抵抗を感じることもあるようです。しかし、そこには大切な意味が込められています。それは、子どもは親や大人の所有物ではないということを確認するということです。神学校で教えておられるキリスト教教育の先生が人格ということについて「子どもに人格があるということは、親や大人の思い通りにならないこと。個別の人格があるから、思い通りにならないのです」と話しておられました。何もかも思い通りにするというのは、隷属させることであり、人格の否定につながります。一方、子どもを守り、その子が社会の中で、つまり、他者との関係の中でより良くい生きていくことができるように、大人は人生の経験者として子どもを教え、導かなければなりません。そのためにも、子どもたちの成長を感謝し、神様からの祝福を願う私たち自身が神様の導きと助けを謙虚に祈るものでありたいと思うのです。
 イエス様は自分たちの中で誰が一番偉いのだろうかと議論している弟子たちの心を見抜くと、一人の子どもの手を取り、ご自分のそばに立たせました。そして、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と弟子たちに語りかけられたのです。「あなたがた皆の中で最も小さい者」とイエス様がおっしゃっているように、子どもは小さな存在です。当時のユダヤ社会の中で、子どもは取るに足らない存在でした。女性や子どもの人格は認められていませんでした。女性は家の財産であり、子どもは大人、何よりも父親の所有物でした。しかし、イエス様は「わたしの名のために子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」とおっしゃるのです。受け入れるというのは、一人のかけがえのない人格を持つ存在として認め、信頼するということです。信頼という関係を築くこと、それが、受け入れるということです。信頼し、愛するという関係を築くためには、相手を人格的に対等なものとしなければなりません。それは、相手に意志や感情があることを認めるということです。
 ルカ福音書では、この出来事はイエス様の二度目の死の予告の後に置かれています。イエス様はご自分の時、十字架に引き渡される時が近づいていることをご存知でした。一方、弟子たちはイエス様が栄光を受ける、つまり、都で王の位につきこの世で権力をふるう時が近づいたと思っていたのです。そこで、弟子たちの関心は自分たちがどのような地位につくのだろうかということでした。そして、弟子たちの中でもどのような序列になるのか、ということが彼らの大きな関心事となったのです。
 私たちはなぜ、そのような地位や序列に関心が向かうのでしょうか。人と比較して、喜んだり悲しんだり、尊大になったり卑屈になったりするのでしょうか。それは、他者と比較しながら自分の価値をはかっているからではないでしょうか。それは、自分自身の存在価値を確認するということでもあります。そのような比較をする私たちに対して、イエス様は最も小さい者になれ、と言われるのです。そして、最も小さい者こそ、最も偉大な者だとイエス様はおっしゃるのです。
 イエス様は言われました。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者」と。私の名のために、それは、イエス様にとってかけがえのない存在として、ということです。私が愛しているものとして、この子供を受け入れなさいとイエス様は言っておられるのです。イエス様は「子どものように神の国を受け入れる」(マルコ10:13~)とおっしゃっています。子どものように神の国を受け入れるとは、守られ、庇護されていなければ生きてゆけないということを知っているということです。愛されること、守られること、助けられ、導かれることの必要を知っているものということです。イエス様の言われる「偉大さ」それは、支えられ、生かされているという事実を受け入れる者ではないでしょうか。神様という、誰よりも偉大な方に愛され、生かされているという事実を受け入れる者こそ世にあって偉大なものなのです。
 イエス様に手を引かれ、イエス様の傍らに立つ子どもたちのように私たちも主イエス様に手を引かれて生きていることを忘れないようにしたいのです。そして、人との比較を超えて神様に受け入れられているということを感謝して、信じる者でありたいと思うのです。


 -祈り-

 主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。
 今朝、私たちは子どもたちの成長を感謝し、子どもたちへの祝福を共に祈り、願いました。
 あなたは、私たちを愛し、御子イエス様をお遣わし下さいました。私たちは、子どもも大人もみなあなたの作品です。あなたに愛され、あたなの導きの中を生きています。主よ、私たちの心が日々あなたの前に謙虚でありますように。そして、若い者も年老いたものもみな、あなたの恵みと憐れみの中を歩んでいることを忘れることがありませんように。
この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン


 -聖書-

9:46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
9:47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
9:48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」