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「群衆の叫び」 マルコによる福音書15章1~20節
宣教者:富田愛世牧師
【ピラトの裁き】
14章で祭司長たちはユダヤの最高法院においてイエスに対する死刑判決をくだしました。しかし、前回もお話ししたように当時のユダヤはローマ帝国の植民地でしたから正式な死刑判決をくだすことが出来ませんでした。
そこで祭司長たちは夜が明けるとすぐ、ピラトというローマ帝国から派遣されていたユダヤ総督のところへイエスを連れて行ったのです。
ピラトはイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と質問し、イエスは「それは、あなたが言っていることです」と答えられました。この質問には深い意味が込められているのです。
ピラトにとって死刑の執行をするための条件として、訴えられている被告人がローマ帝国に対する反逆者である必要があったのです。ですから「ユダヤ人の王」という言い方は、ローマ帝国の支配からユダヤを独立させる危険人物なのかということが知りたかったのです。
この質問に対してイエスが「それは、あなたが言っていることです」と答えたことは、ピラトにとって不思議なことだったはずです。たいていの場合、告発された人は自分を弁明するために必死になるはずです。
しかし、イエスはそうしなかった、それどころか、この後、祭司長たちが、ある事ない事イエスに対して訴えるのですが、その訴えに対してイエスは沈黙しているのです。ピラト自身「何も答えないのか」と尋ね不思議に思ったと書かれているのです。
このユダヤ人の王という言葉には政治的な権力者という意味ではなく「メシア」救い主としての王という意味が込められていたのではないかと思うのです。そして、ピラトにもそのことが伝わっていたのではないかと思うのです。
【群衆の叫び】
ピラトはこの一切の成り行きを見て、死刑に当たる罪が無いことに気づきました。マタイ福音書27章18節を見ると、そこには「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである」と書かれています。
さらに同じマタイ福音書27章19節には、ピラトの妻からの伝言として「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」と書かれています。
ピラト自身の心はイエスに対して尋問した内容や妻からの伝言によって、9割方イエスを釈放しようという考えは決まっていたのでないかと思うのです。
ピラトという人物に対して、最終的な死刑判決を行なった人だとか、自己保身のために罪のないイエスを死刑にしたとか、非難する人が多いのですが、この判決にいたるまでの心の動きを見るならば、適切な判断をしようとしていたように感じます。
さらに都合の良いことに、祭りの度ごとに人々が願い出る囚人を一人釈放することになっていたので「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と尋ねました。
しかし、ピラトの思いとは反対に群衆は、祭司長たちに扇動されてバラバを赦し、イエスを死刑にするように要求したのです。この時の群衆の叫びに対してピラトのとった反応を民意に従ったと言えば、聞こえは良いのですが、このような群集の叫びが本当に民意なのでしょうか。
一人ひとりはそう思っていなくても、リーダ的な存在の誰かの言う事であったり、周りの人たちが別の意見を言い出したりすると、心の中では反対していても言い出せなくなり、その場の空気に流されてしまうという事があります。ここでの群集の叫びは、そういった群集心理というものによって流されてしまったものではないでしょうか。
また、ピラトも真実を押し通すよりも、群衆を満足させ、この後の政治的な安定を願って、イエスを死刑に処することを許可してしまいました。
【バラバとは?】
群衆が釈放するように要求したのはバラバという人物でした。バラバは暴動を起こし、人殺しをしたという事です。どのような暴動かというとローマ帝国からの独立のための暴動であったと言われています。そういう意味で、バラバは政治犯だったのではないかと思われることもありますが、人を殺したとも書いてあるので、その辺は不明です。
また、ヨハネ福音書には強盗だったと書かれています。ですから本当のところは、よく分からないのでしょう。だいたい人間の社会において、悪い奴は色んな事を言われ、さらに尾ひれが付くので、実際よりもさらに悪く言われてしまうのが常かもしれません。
そして、このバラバという名前にも、とても興味深いことがあるのです。正式な名前はイエス・バラバというそうです。マタイ福音書27章16節を見るとピラトは「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」というように少し皮肉を込めて群衆に問いかけているのです。
また、このバラバという名前はヘブル語のバルという言葉とアッバという言葉が組み合わされたのではないかとも言われています。バルというヘブル語は「子ども」という意味で、アッバというのは「父」という意味です。つまり、バル・アッバと分けて発音するならば、父の子となるわけです。もうお気づきだと思いますが、イエスは神のことを父と呼んでいました。ですからイエスのことも父の子と呼んで差し支えなかったというのです。
このようにバラバに関しては、その人物像を知ろうと様々なアプローチがなされているのです。この後、バラバがどうなったのか聖書は何も触れていませんが、映画や小説になって、人々の興味を引き続けているのです。
岩波文庫から出ているラーゲルクヴィストという人の書いた「バラバ」という小説はとても有名で、その後のバラバについて信仰を持ったかどうかはハッキリとは書かれていませんが、最後は十字架の刑に処されるクリスチャンたちと一緒に、彼もまた十字架につけられます。その最後の瞬間、彼は暗闇のなかへ話しかけるように「お前さんに委せるよ、俺の魂を」とつぶやいて息絶えたとなっています。私たちの想像力をとても豊かにしてくれる言葉だと思います。
【私たちの中のバラバ】
私たちが聖書を読む時、そこに登場する様々な人物に自分を当てはめて読むことがあります。私はそういった読み方をしなければ、聖書を自分の出来事として読むことができないと思っています。
第三者になって、どこか遠い所から成り行きを見るように読んでも意味がないように思うのです。ですから、この箇所においてもそれぞれの登場人物に自分を当てはめるのです。時にはピラトであり、群衆であり、本当は当てはめたくないけれど祭司長たちであったりするわけです。
私たちの中には、この話を読み「私はバラバよりましだ」と思う方が多いと思います。しかし、それは人間が勝手に作り出した法律という基準に当てはめるからです。法律は私たちが社会生活を営む上で非常に大切なものです。守らなければならない最低限のルールなのです。ですから、法律はどうでもいいということではありません。ただし、この聖書が語っているのは、この世の、社会生活のことだけではありません。魂の問題を扱っているのです。教会用語で言うところの救いの問題なのです。
聖書の中心テーマである「救い」ということにポイントを絞って読む時、私は自分自身をこのバラバに当てはめて読まなければ、わからないことが多いのではないかと思うのです。
心の平安、魂の安らぎという事を考える時、社会生活とは別の基準で考えなければならないのです。それがイエスの語られた福音なのです。法律上バラバは犯罪者で、私たちは犯罪者ではないかもしれません。しかし、神の定めにおいては、バラバも私たちも何も変りません。
こんな事を言うと受け入れにくいかもしれないので、例えを変えるならば、バラバもペトロも何も変りません。ペトロは3年の間イエスの弟子で、バラバはここで始めて登場しています。しかし、この時点では、かえってバラバのほうが直接的にイエスの救いの業を感じることができたのかも知れません。
多く赦された者は、多く愛するとイエスは言われました。罪深い者さえ愛されるイエスの愛の前に、私たちは自分のものさしを捨て、イエスの福音、つまりその言葉と行いを受け入れるならば、心の中に平安を受けることができるのです。
讃 美 新生639 主の恵みに生きる 献 金 頌 栄 新生669 みさかえあれ 祝 祷 後 奏