前 奏
 招 詞   詩編22編19節
 讃 美   新生  3 あがめまつれ うるわしき主
 開会の祈り
 讃 美   新生376 友よ聞け主のことば
 主の祈り
 讃 美   新生539 主の山に備えあれ
 聖 書   マルコによる福音書15章21~32節
                        (新共同訳聖書 新約P95) 

「十字架の上で」                 マルコによる福音書15章21~32節

宣教者:富田愛世牧師

【イエスの使命】

今日の箇所は、いよいよイエスが十字架に架かる場面ですが、この場面を理解しようとする時、イエスの人物像が重要なカギとなります。

しかし、私たちはキリスト教という枠に当てはめてイエスを見ているので、聖書が語るイエスとは違ったイエスを見てしまうことが多いのです。どういう事かと言うと、私たちはヨーロッパの絵画によってイエスの外見を想像します。そこにあるのは、青い目をして、白い肌をした、ちょっとキャシャな感じの人だと思います。

しかし、聖書に書かれているイエスの行動を見るならば、少し違った外見が浮かび上がると思うのです。

イエスに限らず、私たちの周りには、似たような人が集まってくると思います。「類は友を呼ぶ」ということわざのとおり、スポーツ好きの人の周りにはスポーツ好きな人が集まるだろうし、文学好きな人の周りには文学好きな人が集まります。

15年ほど前のことですが、ある教会関係の集会に行った時、駅からその教会まで歩いている時、私の前に革ジャンを着て、鎖をジャラジャラさせた中年の男性が歩いていました。できれば関わりを持ちたくないと思っていたのですが、もしかするとこの人も同じ教会に向かってるのかな?と思いました。そしたら案の定、その教会に入っていったのです。そして、その集会が終わる頃には、親しく話すようになっていたのです。

イエスがそうだったということではありませんが、イエスの周りには罪人、異邦人が集まってきました。そしてイエス自身、罪人と呼ばれる人たちや異邦人の側に好んで出て行かれました。また、宗教家たちが好んで集う神殿よりも市場や人ごみを好まれたように思えます。という事は、キャシャな色白の男ではなく、日に焼けた、労働者風の男で、声も体格も大きな人だったと想像します。

その言動を見るときも、静かな物腰というよりも、ダイナミックで積極的だったと思うのです。特に保守的な宗教家に対しては攻撃的でさえありました。だから、祭司長や律法学者たちから命を狙われたのです。しかし、そんな一面を持つと同時に、本当の平和を非暴力という形で貫かれました。その極みが十字架なのです。

【キレネ人シモン】

今日の箇所には「シモンというキレネ人」が登場し、イエスの十字架を担いでいます。キレネとは現在の北アフリカ、リビアに位置する都市なので、このシモンは異邦人だと思います。ただ、シモンという名前はユダヤの名前なのでユダヤ教に改宗した異邦人だったのではないかと思われています。

当時、地中海沿岸ではユダヤ教に改宗する人が大勢いたそうです。なぜユダヤ教に改宗したかというと、ユダヤ教がとても魅力的な宗教だったからなのです。どういった点が魅力的だったかというと、その平和思想だったということです。

沖縄にある日本基督教団の教会で牧師をされている方が20年近く前にイラク戦争が起こった時、イラク攻撃阻止のためにバクダッドに行かれました。その時にイスラムの平和思想に深い感銘を受けたそうです。

その平和思想はユダヤ教の平和思想と同じ根を持つもので、アラビア語では「サラーム・アレイコン」と挨拶します。「あなたに平和があるように」という意味です。ユダヤの「シャローム」と同じ根を持つ言葉です。彼は、街で会う人に「サラーム・アレイコン」と軽い挨拶のつもりで声をかけたのですが、イラクの人たちはみんなその場に立ち止まり、仕事をしていた人は必ずその手をとめ、姿勢を正し、胸に手を当てて、微笑みながら「アレイコン・サラーム」と返してきたそうです。相手に平和を祈るというのは、何かをしながらできることではないということです。イラクの人たちは、この挨拶を形骸化させることなく、長い歴史を通して守り続けてきたのだと彼は実感したそうです。

このように本来、ユダヤ教にも素晴らしい平和思想が与えられていましたが、指導者によってその思想は台無しにされ、イエスを十字架につけるまでに、変化してしまったのです。

さらに、十字架刑につくこと自体、屈辱的ですが、その十字架を異邦人が担うということは、さらに追い討ちをかけるような仕打ちだったのではないかと想像するのです。そして、そのような常識から考えるなら、屈辱的な仕打ちが、反対にイエスにとっては、この上ない栄光に変えられるということを感じるのです。同胞であるユダヤ人ではなく、虐げられ、蔑まれる存在の異邦人がイエスの友となるのです。

【ユダヤ人の王】

刑場であるゴルゴタに着くと兵士たちはイエスを罵り、嘲りました。そして、その罪状書きには「ユダヤ人の王」と書かれていたのです。この罪状書きも、とても印象的なものです。

ヨハネ福音書19章21節以降を見ると祭司長たちは「ユダヤ人の王と自称した」と書き直してくれと頼んだと記録されています。しかし、その訴えを聞いたピラトは「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えているのです。

この時イエスはピラトからユダヤ人の王と認められたという事なのです。つまり、初めて公にユダヤ人の王と認められたのです。そして、十字架刑そのものがイエスのユダヤ人の王としての即位式だったと考えることができるのです。

ユダヤ人の王として即位したイエスは王宮の代わりにゴルゴタと言われる刑場で即位式を執り行い、イエスに与えられたものは、宝石を散りばめた王冠の代わりに、茨の冠。十字架に架かる前に紫の衣、つまり王服を着せられましたが、今は裸にさせられました。その玉座と呼ばれる座は十字架。

そして、側近として、そばで仕えるはずの人は、両脇で十字架に架かっている強盗たちでした。国民は「王様万歳」と叫び、喜びの声をあげるのが常でしょうが、イエスの即時式において群衆は敵意をむき出しにして「十字架から降りてみろ」という罵りの声をあげていたということです。

【自分を救え!】

このような屈辱的な状況に対してイエスは沈黙しておられます。ここにイエスの考える平和の本質が隠されているのです。

数年前から国会が開かれる度に、憲法改悪に関連した問題がニュースになっています。特に平和や人権がおろそかにされそうな改定案が提出されそうな状況にあります。私はクリスチャンとして、福音に照らし合わせてこの問題を考えていかなければならないと考えています。

国家には国家としての立場があると思いますが、天に国籍を持つクリスチャンが国家の考え方に媚びて、理解しようとしたり、同調したりする必要はないと思うのです。旧約聖書の預言者たちのように神の求めておられる平和を毅然とした態度で宣言していかなければならないし、それがクリスチャンの存在意義だと私は信じています。

そして、イエスが語り、実行された平和の実現方法は「愛の実践」なのです。愛は寛容、情け深く、妬まず、高ぶらず、誇らず、無作法をせず、利己的にならず、いらだたず、恨みを抱かず、不義を喜ばず、真理を喜ぶのです。一般には「非暴力」といわれる方法です。

しかし、平和を実現するために「非暴力」という理想を掲げる時、様々な反論がなされます。よくされる質問に「もし、どこかの国が攻めてきたらどうするのか」とか「もっと身近な問題として、あなたの家族が殺された時、非暴力というなら、何もしないで黙ってみているのか」という類の質問があります。もっともらしい質問ですし、これらの質問に対する的確な答えを私は持っていません。

そして、それらの反論の中にイエスに対する「自分を救え!」という声と同じものが聞こえてくるのです。もしイエスがそういった挑発に乗って、天の軍勢に命じてローマ兵たちを全滅させたならばどうなっていたのでしょうか。確かにイエスは十字架に架からず、生き延びることはできたでしょうが、神の救いの計画は実現せず、人々は今も不安と絶望の中でしか生きることができなかったのです。福音は言葉だけになって消えてしまっていたでしょう。

イエスにとって自分を救うことは簡単な事でした。しかし、敢えてそうしなかった、それは力による支配を否定するという事なのです。福音を言葉だけのものにするのではなく、現実の事柄とされたのです。福音を現実の事柄にするということは、教会の中でよく用いられる言葉として「福音に生きる」とか「福音を生きる」と言われる言葉です。これらの言葉はスローガンではありません。「サラーム・アレイコン」や「シャローム」と同じように、歴史の中で生き続ける言葉なのです。

暴力や権力と言われる「力」ではなく愛の実践によらなければ平和は実現しないのです。「もし攻められたら」と考える前に「あなたに平和があるように」と挨拶することができるなら、そこから平和が始まるのです。旧約の時代、神がユダヤ人たちを選び、彼らに使命として与えられた事は「シャローム」なのです。相手の幸せ、幸福を求め、宣言する事なのです。この使命は新約の時代になって、イエスの語られた福音によってクリスチャンに与えられた使命なのです。

 讃 美   新生230 丘の上に立てる十字架
 献 金   
 頌 栄   新生669 みさかえあれ
 祝 祷  
 後 奏