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「神の沈黙」 マルコによる福音書15章33~41節
宣教者:富田愛世牧師
【暗闇の到来】
聖書には様々な「奇跡」と呼ばれる出来事が書かれています。そして、反キリスト教の立場をとる人たちは奇跡が起こらなかった事実を証明して「聖書は嘘だ」と結論付けようとします。反対にクリスチャンの中には、それらを科学的に証明しようとして、様々な試みが行われ、研究されています。特に自然現象については、ノアの洪水や天地創造について、様々な研究結果が出されています。そういった研究をしておられる方たちには、本当に頭の下がる思いで、尊い働きだと思いますが、事実がどうかは、それほど重大なことではないような気もするのです。
何故なら信仰とは事実としての現象を信じることではなく、その奥にある真理を信じていくことだと思うのです。大切なことは「なぜ、そんなことが書かれているのか」ということではないでしょうか。仮に事実と違ったとしても、目に見える面での現象と見えない内面にある本質とは違っていても構わないのではないかと思うのです。
今日の箇所には「昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」と書かれています。なぜ、全地が暗くなったのかについての説明として、皆既日食が起こったのだという説明がなされることが多いのですが、イエスの復活は満月の頃に起こっているので、日食が起こるはずがないそうです。しかし、ここで大切なことは、現実に暗くなったのかどうかではなく、暗闇が訪れたという事なのです。
十字架の上でイエスが語った言葉は全部で七つあるとされています。ルカ福音書に三つ、ヨハネ福音書に三つ、そして、マタイ福音書とマルコ福音書には同じ言葉が一つだけ記されています。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という悲痛な叫びでした。この叫びの背後には、神が沈黙されているという現実がありました。なぜ神が沈黙されていることが分かるのかというと、昼の12時に全地は暗闇に包まれたという言葉からそのことが分かるのです。
暗闇とはどういうことでしょうか。誰でもわかることですが、光が届かなくなることです。光というのは天的な事柄を表しています。つまり、神の支配からはずれてしまうことです。暗闇が到来するということは、神がこの世界との関わりを断ち切り、神によって見捨てられてしまったということを表しているのです。イエスはその身に全人類の罪を背負われ、十字架の死によって、その罪を贖われるわけです。その時イエスは神から見捨てられた存在となったということなのです。
【神に捨てられた人】
しかし、基本的に神はどんなことがあっても、どんな人であっても、私たちを見捨てることはありません。人類の歴史が始まって以来、神に見捨てられた人間は存在していませんし、これからもありません。しかし、ただ一回だけ、そして、ただ一人だけ、神に見捨てられた人がいるのです。それが十字架に架かったイエスなのです。
このイエスの十字架という出来事は終末的意味を暗示していると言われています。「終末的意味」などと言うとチョッと難しい言葉なのですが、聖書の中には終末思想と言われる考え方があります。しかし、私たちの社会では「終末」という言葉が独り歩きしてしまって、誤解されているので注意しなければなりません。
聖書以外で「終末」という言葉が語られる時、それはこの世の終わりであって、すべての最後を意味しています。聖書が語る「終末」とはまったく違った事柄なのです。聖書の語る終末とは、古い時代が過ぎ去り、新しい時代が始まることを意味しています。ここで太陽が暗くなることは、イエスの十字架刑の終末的意味を暗示しているのです。それは新しい時の始まりなのです。
それは律法による支配ではなく、イエスの語る福音によって支配される、救いの時なのです。神の愛が直接的に、具体的にイエスを通して表され、現実のこととなっていく時なのです。ただ、新しい時が始まるためには、古い時の終わりを告げなければなりません。その終わりの時には、大きな苦しみや悲しみが訪れるのです。
この大きな苦しみを表す言葉がイエスの言葉でした。ここには「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」というアラム語の言葉がそのまま記され、その意味がギリシャ語で書かれているのです。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味でした。
この言葉は詩篇22篇の一部分です。ですからイエスは暗記していた旧約聖書の言葉を語っただけだと言われることもありますが、自分が死にそうな時に覚えていた言葉をただ語るというのは、いかにも無理のある説明だと思います。やはりそうではなく、イエスの気持ち、すなわち絶望の言葉を語ったのだと思うのです。
何度も言うように、イエスというお方は神の子ですが、同時に真の人でありました。ここに人間イエスの大きな苦しみ、精神的に追い詰められた姿が表されているのです。そして、この言葉をイエスが語られたことこそが、私たちの救いの出来事に関わってくるのです。
【本当に、この人は神の子】
この後、37節にあるように、もう一度イエスは大声で叫び、息をひきとられたのです。全人類の罪を一心に背負われたからこそ、神が沈黙し、神に見捨てられなければならなかったのです。
また、38節を見ると、この時に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と書かれています。神殿の幕とは、神と人との間の壁を意味しています。ユダヤ教の信仰において、罪を持つ人間は神に近づくことが許されていませんでした。そのために祭司が立てられ、人々の代わりに神殿の至聖所と呼ばれるところに入り、いけにえを捧げ、人々の執り成しのための祈りを捧げていました。
しかし、今、イエスが神と人との隔ての壁を、十字架に架かることによって取り除いて下さったのです。イエスが取り除かれた壁は神と人との間の壁だけでなく、ユダヤ人と異邦人の間の壁でもあり、人が勝手に作り上げた、差別という壁すべてを取り除かれたのです。
さらに続く39節を見ると、そこには百人隊長が立っていました。たぶんこの百人隊長がイエスを含む三人の十字架刑に関わる、具体的な事柄の責任者だったと思われます。
彼は職責上、命じられたことを間違いなくこなさなければならなかったと思います。職責上であろうが、人の死を目の前にした時、その感情は普通の状態ではなかったはずです。そのような状況の中で、イエスの十字架に関わる一連の出来事を目の前で見てしまったのですから、その心が動かされないはずがないと思います。
この光景を見て、百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と信仰告白をするのです。この百人隊長のプロフィールは全く分かりません。しかし、ただの職業軍人ではなく、しっかりとした使命をもって、その働きを担っていたのではないかと思います。そして、軍隊では当たり前のこととして、能力主義の中で、のし上がって来たはずです。
多くの人の死を見てきたし、自分の手で人を殺してきた、そんな百人隊長の目の前で、今まで見てきた死とは全く違う、人間的な常識から見るならば、敗北のように見える出来事が、実は勝利への第一歩となる、イエスの最後を目にした時、彼の心は変えられたのではないでしょうか。
【見守る女性たち】
ところで、何故ここでローマの百人隊長が登場するのでしょうか。おそらく彼は異邦人だったと思われます。つまりユダヤの指導者たちからは、救われる値打ちのない者と思われていたはずです。
マルコ福音書は、そのような価値がないと思われるような人に焦点を当てているのです。そして、イエスの福音による価値観、神の価値観の豊かさを伝えようとしているのです。
さらに40節を見ると、そこには「婦人たちも遠くから見守っていた」と書かれています。そして、具体的な名前が記録されているのです。「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた」と書かれています。
彼女たちはユダヤの常識からすれば、数に入らないような存在でした。しかし、そのような数にも入らないような存在がガリラヤにいた時から今にいたるまでイエスの側にいて、イエスの世話をしていたと証言しているのです。
具体的な名前はこの三人だけですが、41節の後半には「なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ登って来た婦人たちが大勢いた」と記録されています。
逃げてしまって、散り散りになった弟子たちとは対照的に「遠くから」ではありますが、イエスの最後を見守っていたのが女性たちであり、その最後に信仰告白をしたのが異邦人の百人隊長であったという事は、私たちの常識からすれば、異常な事態です。
しかし、それが神の計画であり、イエスはそのような者たちのために十字架に架かられたのです。
讃 美 新生229 十字架のもとは 献 金 頌 栄 新生669 みさかえあれ 祝 祷 後 奏