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「先を行くイエス」 マルコによる福音書16章1~8節
宣教者:富田愛世牧師
【女性たちの心配】
イエスの生涯を見ていく時、その弟子たちとの関わり方にとても興味を覚えます。山上の変貌(マルコ9章)の場面や最後の晩餐と言われる過越しの食事の場面、また、ゲッセマネの園での祈りの場面では男性の弟子が居合わせました。保守的な神学者は、そのような関わり方から男性の弟子たちの優位性を語ろうとします。
しかし、そういった場面も大切でしたが、実際に十字架上で息を引き取られた場面や今日の箇所のような復活の場面も非常に大切な場面であり、そこには男性の弟子たちは登場せず、女性の弟子たちが登場していると言うことは、とても意味のあることだと思うのです。
それは、どちらが重要かということではなく、それぞれに役割が定められていると言うことなのです。一人の弟子がすべての場面に一緒にいて、すべての証言者になる必要はないのです。
さらに、この事実は当時の常識からするならば、とても受け入れにくいことでした。当時の家父長制社会において、女性はものの数にも入らない存在でした。
しかし、イエスの十字架と復活の場面に女性の弟子たちが居合わせたということは、それ自体が十字架と復活の意味を物語っているのです。この世的には愚かしいことが、実はとても意味の深いことであり、福音そのものなのです。
さて、復活の朝、イエスの弟子たちは何をしていたのでしょうか。女性の弟子たちは、この箇所にあるように、イエスの遺体に香油を塗るために、朝早くから出かけているのです。一方、男性の弟子たちはどうしていたのでしょうか。
聖書には直接書かれていませんが、想像してみてください。ヒントとしてはルカ福音書では女性たちの話を聞いても愚かな話と思い信じなかったとあり、ヨハネ福音書によるならば、マグダラのマリヤの報告を聞き、墓に走っていきますが、空の墓を見て家に帰り、夕方にはユダヤ人を恐れ、家の戸を全部閉めて息を殺して潜んでいたのです。
私の想像では、ただ落ち込み、何もしないで悲しみに暮れていたと思うのです。この情けない男たちとは対照的に女性たちは、とても現実的でした。きちんと遺体の処理をしなければならないし、そのために墓の石を誰が取り除いてくれるかと心配していたのです。
【ここにはおられない】
女性の弟子たちは、入口の石のことを心配しながら、墓に着くとその石はすでに取り除かれ、墓の中に入るとそこにはイエスの姿は見当たらず、代わりに真っ白な衣を着た若者が座っていたのです。
この光景を見て女性たちは大変驚いたようです。もう一度、想像してみて下さい。薄暗い墓の中にイエスの遺体があるはずだったのに、行ってみると石が取り除けてあり、中にはイエスの遺体の代わりに真っ白な衣を着た若者がいるのです。ビックリする光景です。彼女たちは、もう何が何だか分からなくなってしまったと思うのです。
さらに、この若者が語る言葉もすぐには信じられないものだったと思います。6節から読んでみましょう。
「若者は言った、『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい、お納めした場所である。」
「ここにはおられない」と若者は語るのです。もうイエスは復活されて、ここにはいないのですよ。そして、神の計画は始まっているのですよ、と語るのです。
弟子たちは、そして私たちは墓の中に何を期待していたのでしょうか。厳しい言い方になりますが、イエスの遺体を期待していたのです。つまり、神の計画の敗北を期待してしまったのです。
十字架でのイエスの死という出来事によって、弟子たちの時間はきっと止まっていたと思います。この世の終わりが来てしまったように感じていたと思うのです。
しかし、人の思いを超えた神の計画は、どんなことがあったとしても進み続けているのです。すべてが否定的に感じられる時でも、これ以上前に進めないと思う時にも、裏切られ、自信を失い、自暴自棄になっていても、神の計画は前に進んでいるのです。なぜなら、神の計画は私たちを罪から解放し、希望を与えようとするものだからです。
さらにこの若者は続けてこう語ります「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」
【驚きと恐れ】
この言葉を聞いて女性の弟子たちは「墓を出て逃げ去った」のです。なぜなら「震えあがり、正気を失っていた」のです。その通りだろうと思います。本当に逃げ帰ったと思います。十字架によってイエスが死んでしまったということだけでさえ、受け入れがたい出来事でした。精神的にも限界にきていたと思います。
それでも「やらなきゃ」という気持ちでイエスの遺体に香油を塗りに来たわけです。しかし、その遺体がなくなっている。限界を超えて、正気を失ってしまったことを誰も責められない状態だったのです。
彼女たちはこの言葉の意味を理解することができませんでした。そして、ただただ恐ろしかったようです。福音書は「そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と締めくくっているのです。
マタイやルカ、ヨハネ福音書によると、喜んで帰り、他の弟子たちにこの出来事を伝えたとなっていますが、現実的にはマルコの記述の方が正しいような気がします。でも、マタイ、ルカ、ヨハネ福音書が嘘を書いているかと言うと、そうではないと思うのです。
時間的に少しズレがあったのではないかと思うのです。この日にはたぶん何も言えなかったのでしょう。でも、翌日以降、少しずつ語り始めたのではないかと思うのです。
【始まり】
皆さんのお手元にある聖書では、この後9節以降がカッコの中に入っていると思います。本来のマルコ福音書はこの8節で終わっていたようなのですが、あまりにも中途半端に終わっているので、その続きを書き加えた写本がたくさんあったので、カッコ付けで9節以降を加えたのです。
8節で終わっていたとするならば、確かに中途半端な終わり方に感じます。しかし、ここで終わることによって、十字架と復活の本当の意味が伝わるのではないかと思うのです。
どういうことかと言うと、終わりのような状況が本当は始まりであるということを、中途半端に終わらせることによって伝えようとしていたのではないかと思います。
イエスの十字架と復活という出来事は、終わりを始まりに変える出来事なのです。十字架によって弟子たちは失意のどん底に突き落とされました。もしそれで終わっていたとすれば、そこまでです。
しかし、イエスは3日目に復活されました。失意のどん底にいた弟子たちは、初めは信じられませんでしたが、復活のイエスに出会い、共に過ごすことによって力と希望が与えられていくのです。価値観が180度ひっくり返る体験をしたのです。
イエスは弟子たちに「ガリラヤで待っている」と語られました。ガリラヤとはイエスの宣教活動の原点でした。ガリラヤから始まり、ガリラヤで完成したのです。
神の計画が完成する時、それは人の目には失敗のように映ることの方が多いかもしれません。私たちはどうしても目の前にある事柄に心を奪われてしまいます。物事を大局的に見ていくことが苦手なのです。ですから、神の大きな計画を理解することが難しいのです。
しかし、神の計画とは、私たちの思いをはるかに超えた大きさを持っています。その広大な計画の中で、神を見失ってしまった時、もう一度、原点に戻ることが勧められているのです。
そこには、いつでもイエスが待っていてくださいます。今も生きて働いておられるイエスが傷ついたり、弱ったり、自信をなくしたりした私たちのことを、愛と哀れみをもって受け止めてくださるのです。
讃 美 新生614 主よ終わりまで 献 金 頌 栄 新生671 主のみなたたえよ 祝 祷 後 奏