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「信じなかった」 マルコによる福音書16章9~18節
宣教者:富田愛世牧師
【生きた言葉】
2020年の1月からマルコ福音書を読みはじめて、いよいよ来週で最後になります。今日を含めて、あと2回になりますが、この9節からはカッコ付けになっている事にお気づきだと思います。ある過激な牧師は「この9節以降はマルコ福音書の著者が書いたものではないから認めない」と言って、最近の情報開示請求に対する政府文書ではありませんが、この箇所を真っ黒に墨ぬりして消すように指導される事があるそうです。
本来マルコ福音書は16章8節で終わっていたと考えられています。実際に古い写本では、9節以降が書かれていないものがたくさんあるそうです。しかし、8節までだと物語として中途半端な終わり方になってしまいますし、イエスの復活後の出来事が謎に包まれたままなので、誰かが書き足したものだろうと思われるのです。
このように言うと、聖書の中には中途半端なものがあるのだから、真の神の言葉とは言えないのではないかと思われるかもしれません。聖書の権威ということを主張する方々にとっては、権威を地に落とすような事につながるかも知れません。しかし、聖書というのは歴史書でもなければ、文学書でもありません。神のメッセージが記録されているのです。そして、神からのラヴレターであるとも言われています。つまり、歴史的な間違いもありますし、文学的につじつまが合わない部分もあります。しかし、一貫したメッセージを持っているという事が大切な事だと私は考えています。
ですから、この事実は決して聖書の権威を落とすものではないと思っているのです。かえって、当時の人々の信仰を正確に伝えているように感じるのです。当時の教会の礼拝は非常に多様なものだったようです。少なくとも現在私たちが「当たり前」と思っているような礼拝とは違うものだったようですが、いくつか共通点があります。それは聖書が読まれたという事です。
旧約聖書ももちろん読まれたでしょうが、当時、出来立ての新約聖書、もちろん今のように27巻にまとめられた物ではありませんが、パウロの書いた手紙が読まれたり、いくつかの福音書が読まれたりしていたはずです。その中でマルコ福音書が16章8節まで読まれる、すると、そこに集う人々が「その後、どうなったのだろうか」と想像し、さらに他の福音書と読み比べたり、使徒と呼ばれる人の話を思い出したりしながら、イエスの生涯に思いをはせていくという事が行われたのではないかと思うのです。そのように想像するなら、本当に豊かな交わりがなされていたのではないかと思うのです。
そのような中で、この9節以降が書き足されたとするなら、それこそ、生きた言葉としての聖書が、ここに出来上がったと思えるのです。
【マグダラのマリア】
さて、この9節からの部分ではイエスの復活の証人としてはじめに登場するのはマグダラのマリアです。この名前はダビンチコードという書籍や映画などでも話題になったので、聖書を読んだことのない人でも名前だけは聞いたことがあるというくらい有名な人だと思います。ただ、名前ばかりが先行してしまって、本当のマグダラのマリアを知らない人が多いように思います。
一般的にはイエスの愛人だったとか、イエスの子どもを産んだ女だとか、好き勝手な言われ方をしていますが、それくらい、噂が立つくらい、イエスに愛された人だったということなのです。
また、キリスト教会内では罪深い娼婦だったと伝えられていますが、真実とはかけ離れているようです。重い病気を癒してもらったことは事実として認められますが、「罪深い娼婦」というのは作られたイメージで、真実の姿は正反対で最初から最後までイエスに従い続けた、十字架と復活の証人で、教会の指導者だったと考えられます。
このマリアはマルコでは15章40、47節、16章1節に登場しますが、いずれも一人で登場するのではなく、他の女の弟子たちと一緒に登場しています。他の福音書を見るならば、ヨハネ福音書20章でも復活のイエスに出会う証人として描かれています。そして、このヨハネ福音書においては復活の朝にマグダラのマリアだけがイエスの墓に行っているのです。また、ルカ福音書8章2節では7つの悪霊を追い出してもらった女として描かれています。これらの資料を基にして9節が書かれていると思われます。
マリアは復活のイエスにお会いして、驚きと恐怖、また、喜びの入り混じった、複雑な気持ちだったと思います。しかし、彼女の中では喜びの気持ちが勝っていたのではないでしょうか。だから彼女はすぐに他の弟子たちのところに行って、イエスの復活を報告するのです。しかし、他の弟子たちは彼女の言葉を信じませんでした。当然と言えば、当然かも知れません。
復活の主にお会いするとか、神の臨在に触れるとか、聖霊の油注ぎを受ける、という事があります。表現の方法は色々ですが、神との直接的な関係を持つということで、同じ意味の出来事です。多くのクリスチャンはそういった事を経験しているはずです。しかし、それを経験した時の喜びはなかなか他の人には伝わらないものなのかも知れません。
【ふたりの弟子】
次にふたりの弟子がいなかの方へ歩いていく途中で、復活のイエスにお会いするわけですが、これもルカ福音書24章13~35節にあるエマオ途上の物語が背景にあると思われます。
ここでイエスは「別の姿で御自身を現された」のです。どのような姿だったのかは、分かりませんが、ルカ福音書によるならば、二人の弟子は一緒に歩いていても気づかなかったということです。つまり、外見からイエスだと判断することの出来ない状態だったという事なのです。
しかし、食事の時にパンを取り、祝福して、それを裂いた時に彼らは気づきました。しかし、その時にはもうイエスの姿は見えなくなっていました。そして二人は他の弟子たちのところに戻りますが、その道々、イエスに出会った時、心が内に燃えていたと話し合っているのです。マグダラのマリアと同様に、復活のイエスに出会い、主の臨在に触れ、聖霊の油注ぎを受ける時、喜びに満たされ、心が燃やされるのです。
彼らも復活のイエスに出会った事を他の弟子たちに報告しますが、誰もその言葉を信じませんでした。このマルコの記述とルカ福音書の記述とは違いますが、違うことは問題ではありません。それより、信じられない他の弟子たちが問題なのです。
数日前まではイエスに従っていたわけですから、イエスの事を信じていたはずです。イエスの語る言葉を信じていたはずです。しかし、十字架の死という現実を目の前にした時、彼らは信じる事が出来なくなってしまったのです。つまりここで問題にされるのは、信じるという行為の曖昧さなのです。ただ、注意しなければならないのは、ここで言う「信じる」ということは、人間の行為、意志による行為だということです。
【疑う者たち】
ここには、イエスに出会って心を燃やされ、喜びに満たされた弟子たちと、信じることの出来ない弟子たちとが対照的に描かれています。私たちが神からの祝福を受けるということは、こういう事なのです。信じるならば祝福を受けるけれど、信じようとしないならば祝福は逃げていってしまうのです。
信じることの出来ない弟子たちをイエスはとがめられました。この「おとがめになった」という言葉は聖書の中にあまり出てこない非常に強い意味の言葉だそうです。そして、弟子たちに対してこの言葉をイエスが用いたのは、ここだけだということです。それくらい復活のイエスに出会った人々の言葉を信じなかったという行為を責められたのです。
もしかすると、そこには男性の弟子たちの中にある女性蔑視、女性差別的な態度に対する責めもあるかも知れません。マルコによれば、復活のイエスに最初に出会うのはマグダラのマリアですし、マタイ福音書ではマグダラのマリアともう一人のマリア、ヨハネ福音書でもマグダラのマリアが最初にお会いしています。彼女たちの証言を信じなかったことに対する責めがあったとしてもおかしくないと思います。
復活のイエスに出会い、主の臨在に触れ、聖霊の油注ぎを受けた者の言葉を信じない事が、どれほど愚かな事なのかが、ここで示されているのです。
しかし、そんな彼らをイエスは「全世界に」遣わすのです。人間的な思いからすれば、不安でいっぱいだったと思います。しかし、今これを読んでいるクリスチャンにとって、また教会にとって、この事は大きな慰めではないかと思うのです。多くの場合、私たちはこの信じることの出来ない弟子たち、疑う者たちと同じ立場にいるのです。
そんな弟子たちを、私たちを、教会を、イエスは用いようとされるのです。実際、この後すぐに弟子たちは喜び勇んで出て行ったわけではありません。イエスの言葉に従って聖霊を受けるまではエルサレムに留まっていたのです。そして、約束の時、つまり、ペンテコステの日に「聖霊」を受けることによって大胆に変えられました。人間の思い、常識、意志も大切ですが、神の計画の前には無力なものなのです。
神の働きは信じられない者、愚かな者、弱い者、見えなくされた者、そんな者たちに励ましと勇気を与え、彼ら彼女らを縛っているものから解放し、存在の意味を回復させてくださるのです。
讃 美 新生665 愛をつたえよう! 献 金 頌 栄 新生671 主のみなたたえよ 祝 祷 後 奏