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「神の右に座る者」 マルコによる福音書16章19~20節
宣教者:富田愛世牧師
【マルコによる福音書】
2020年の1月から読みはじめたマルコによる福音書も今日で最後になりますので、少し振り返ってみたいと思います。
まず聖書の中には福音書と呼ばれる書物が4つありますが、その中で一番初めに書かれたのがマルコ福音書だと考えられています。正確には分かりませんが、だいたい紀元50年から70年の間に書かれただろうという事です。
また、そもそもの話ですが、当時のパレスチナ地域の識字率はとても低くて、エリートと呼ばれるような人しか文字を読むことも書くこともできませんでした。信徒が集まり礼拝をする時も、基本的には聖書が読まれるというより、イエスについての証言を聞くという形の礼拝が中心だったと考えられています。
ですから福音書も読むものとして書かれたというより、誰かに読んでもらうことを前提としていたはずです。
ある牧師はマルコ福音書のことを「庶民の福音」と語られました。この福音書の内容をとてもよく言い表していると思うのです。堅苦しい言葉で書かれているのではなく、誰かに読んでもらうことを前提にして、分かりやすい表現で書かれているという事です。
また、別の牧師は「批判的福音書」だと語っています。この表現もとても特徴をよく言い表していると思います。何をどのように批判しているかというと、ペテロや主の兄弟ヤコブを中心としたエルサレム教会の権威主義的な側面に対して批判的な表現をしているというのです。
さらにローマ帝国に対して「神の国」という言い方で、ローマの支配が絶対的なものではなく、神による支配にこそ、本当の平安があることを示しているのです。
このように「庶民の福音」とか「批判的福音」ということは、まぎれもなくイエスの生涯を表すものではないでしょうか。最初に書かれた福音書として1章1節で「神の子イエス・キリストの福音の初め」と語り、イエスが神の子であり、キリストであり、イエスご自身が福音であるということを宣言しているのです。
【神の子の姿】
それでは、具体的にこのマルコによる福音書の中には何が書いてあったのでしょうか。それを一言で語るのはとても難しいことですが、これだけは覚えておいて欲しいと思うことがあります。それは、当たり前と言われるかも知れませんが、イエスというお方は神のひとり子であり、神であるという事です。
「神」という言葉を聞く時に、私たちは様々なイメージを持ってしまいます。そして、もしかするとイエスというお方は、私たちの持つ「神」イメージをことごとく壊されたお方なのかもしれません。
ここにいる私たち、また、この動画を見ている人たちの多くはクリスチャンだと思います。クリスチャンにとっての「神」イメージは聖書に書かれている、そして、イエスが教えている「神」を信じているので、違うかも知れませんが、多くの人にとって、これは国や文化を超えて共通していると考えられていますが、「神」とは正しいお方であり、人の過ちを指摘して、罰を与える存在であり、人間がなれなれしくその名を呼ぶことさえ、はばかられるような存在なのではないでしょうか。
イエスが壊された「神」イメージの中で有名な例として、イエスは神のことを「アッバ」と呼びかけました。これは幼児の使う言葉で日本語にすると「お父ちゃん」という意味の言葉です。
また、イエスは神であるにも関わらず、地上に降りてきてくださり、私たちと同じように、泣いたり、笑ったり、怒ったり、元気になったり、落ち込んだり、私たちと同じようになってくださったというのです。
そして、マルコによる福音書は、そんなイエスの姿を人々に伝えようとしているという事なのです。
どこかの偉い人のように、椅子に座って、他の人に命令するだけの人ではなく、自分で歩いて行って、悲しんでいる人や苦しんでいる人に声をかけてくださり、喜んでいる人や楽しんでいる人のところに行って、一緒に騒いでくださるお方だという事を伝えているのです。
【話した後】
9節以降の付け加えられた部分には、イエスが十字架に架かり、死んで葬られ、三日目に復活され、最初にマグダラのマリアの前に、その姿を現され、その後、二人の弟子に姿を現し、次に11人が食事をしているところに現れ、彼らを宣教に遣わすと語られたという事が書かれていました。
使徒言行録1章によると、復活のイエスは40日間、弟子たちに姿を現して神の国について語られ、語り終わってから、天にあげられたと記録されています。イエスは恐れと不安に襲われていた弟子たちを放っておくのではなく、励まし、勇気付けた後、天に挙げられ神の右の座に着かれました。
今日、読んだ聖書には「弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」と書かれています。「神の右の座」というのは神と等しいお方であるということを意味する言葉なのです。
しかし、先ほども少し触れたように、イエスは天において神の右の座に着かれたと言っても、ただ座っているだけではありません。というよりも、ここで「神の右の座に着かれた」という事は神と等しいという事を伝えようとしているのであって、そこに座っているという事が大切なのではありません。
なぜなら、福音書を通してイエスの生涯を見て行く時、王座のような椅子にふんぞり返っているイエスを想像することが出来ないのです。からの墓にいた天の使いは「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」と語りました。イエスはガリラヤで待っておられたし、今も待っておられるのではないでしょうか。
ガリラヤとはイエスが生涯を過ごされた場所であり、そこで人々にお会いし、共に笑い、共に泣き、共に喜び、共に怒った場所なのです。復活のイエスに出会うという事は、その場所で生前のイエスに出会うという事なのです。
マタイ福音書の一番最後28章20節には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と語られました。イエスの言葉に嘘はありません。これは真実なのです。だからイエスは神の右の座に座っているだけではなく、今も私たちと共にいて、慰めと励まし、勇気を与え続けておられるのです。
【弟子たちは】
その後、弟子たちはイエスに命じられたとおり、出て行って、至る所で福音を宣べ伝えたと書かれています。しかし、イエスの十字架の前で逃げ去ってしまい、復活の朝もイエスの復活を信じられず、家の戸を閉め、ユダヤ人に見つからないよう隠れていた弟子たちが「出て行って、至る所で宣教した」などとすぐには信じられないことです。
弟子たちをここまで勇気付けたのは、やはり復活のイエスに出会うことが出来たからなのではないでしょうか。エマオに行く途中二人の弟子たちがイエスに出会い、イエスと話している時「心が燃えていた」と語りました。
イエスと出会うという事は、それくらい弟子たちにとって、そして、私たちにとっても衝撃的な出来事なのです。
彼らが伝えた福音とはイエスの言葉と行動です。それはエルサレムの宗教指導者たちが語っていた言葉や行動とは全く違ったものだったのです。宗教指導者たちは正しい人々で尊敬に値する人々だったと思います。しかし、その言葉にぬくもりを感じることは少なかったのではないでしょうか。その行動に励まされることは少なかったのではないでしょうか。
イエスの言葉、つまり語られた福音は、貧しい者に希望を与え、弱い者に寄り添い、傷ついた者を癒されました。そして、その行動は作られたものではなく、自然に見えたのではないでしょうか。
世界に出て行って、福音を宣教した弟子たちは独りではありませんでした。「主は彼らと共に働き」と書かれているように、インマヌエルの神として、私たちと共にいてくださるのです。
弟子たちがイエスにお会いしたように、私たちもガリラヤに向かって歩みだすならば、今もそこにイエスがおられ、私たちを迎えてくださるのです。そして、私たちに必要な励まし、勇気、希望を与え続けておられるのではないでしょうか。
讃 美 新生583 イエスにある勝利 献 金 頌 栄 新生671 主のみなたたえよ 祝 祷 後 奏