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「まだ見ぬ、あなたへ」 ローマの信徒への手紙1章8 10.17.
宣教者:富田愛世牧師
【感謝します】
今、今日の聖書個所を読んでいただきましたが、まず初めに8節の最初に「まず初めに」という言葉が出てきます。今、私は「まず初めに」と言いましたが、私の語った「まず初めに」とパウロが語る「まず初めに」では意味が違います。
同じ言葉なのに意味が違うとは、どういうことでしょうか。私の場合「まず初めに」の後「次に」とか「さらに」という言葉が続きます。しかし、パウロが8節で「まず初めに」と言った後「次に」とか「さらに」という言葉は続きません。新改訳聖書や口語訳聖書では「まず第一に」となっていますが、「第二」「第三」はありません。
これは順番を表す言葉ではなく「いちばん重要なことはこれですよ」という意味でパウロが使っている言葉なのです。
何がいちばん大切なのかというと、それは「感謝」する事です。一般的な手紙の書き出しにも感謝を表すものがありますが、パウロの場合は習慣や常識としてではなく、本心として書いています。そして、その感謝は人やものに向けられるのではなく、いつも神に向けられています。
その神をパウロは「わたしの神」と表現します。ローマの信徒たちに向けた手紙なのだから「わたしたちの神」としたほうが良さそうな気がします。その方が相手も共感を持ってくれそうな気がします。
以前、70年代の学生運動を特注した雑誌を読んだ時、興味深いことが書いてありました。それは、その当時の学生たちの演説には一つの大きな特徴があるということでした。その特徴とは必ず「我々は」と言うとのことでした。自分個人の意見、思想ではなく「我々」という言葉によって内輪で一般化し、個人的な責任を回避しようとする思いの現れなのだと説明されていました。
未熟な社会の中において今でも「みんなで」とか「私たち」という言葉によって責任の所在を曖昧にすることがあると思います。教会の中でも同じことが起こっています。パウロがここで「わたしたち」とせず「わたし」としているのは、まさにこのことです。
パウロにとって神は救われるに値しない、キリストの迫害者だった自分を救ってくれた、ただ恵みによって救ってくれた唯一、絶対の神です。自分の救いに対しても完全に責任を取ってくださるお方です。そのような確信からパウロは「わたしの神」と語っています。
【あなたがた一同】
次にパウロは何を感謝しているのでしょうか。それは「あなたがた一同」であり「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているから」です。パウロはまだ一度もローマに行ったことはなかったので、ローマ教会の信徒には会ったこともなかったはずです。にもかかわらず「あなたがた一同についてわたしの神に感謝します」と語っています。
「一同」という言葉は原文では「あなたがた皆」という意味です。「一部分」ではありません。あの人以外、この人以外ではありません。例外なしにあの人もこの人もローマ教会のすべての人について心からの感謝を捧げています。これは驚くべき事柄です。そして「あなたがたの信仰が全世界に伝えられている」と言うのです。
当時の世界はローマを中心としたヨーロッパ、北アフリカ、そしてアジアの西側だけでした。今から考えると小さな世界です。でも、これだけの地域全部に伝えられているとは、ずいぶん大げさだと思います。
もし、有名な伝道者から市川大野キリスト教会に手紙が来て「あなたがたの信仰が全世界に伝えられている」なんて書かれていたら、嬉しくなると思いませんか。でも、嬉しいのは一瞬で、次の瞬間「こんなお世辞を言って」と思うのではないかと思います。
パウロはどんな思いでこれを書いたのでしょうか。少なくとも「お世辞」として書いたのではありません。実際にローマという都市は、たいへん栄えていました。「すべての道はローマに通じる」と言われるように、あらゆるものがローマに集まり、ローマから出ていきました。多くの人がローマに来るし、ローマから様々な地方へと旅立っていったはずです。たくさんの情報に溢れる町でした。お世辞ではなく、ローマ教会の噂は全世界に広がり、その信仰が全世界に伝えられていたのです。
このように読んでいくととても大きな群れとしてローマ教会を想像してしまいますが、聖書はそのようには語りません。現在のローマ教会は世界最大です。ローマ・カトリックの信徒12億人余りの頂点ですし、サン・ピエトロ大聖堂は世界一の教会堂です。
しかし、パウロの時代のローマ教会は教会堂も持っていない教会でした。教会はその数や大きさではなく、そこに存在しているということが大切なのです。どんなに便利な所であろうが、不便な所であろうが、都会であろうが、田舎であろうが、集まる人が金持ちであろうが、貧乏人であろうが、そんなことはまったく関係ありません。そこにイエスを救い主と告白する者が2人3人集められればそれで十分、それでいいのです。これがパウロにとっての感謝でした。
【パウロの願望】
9、10節で具体的なパウロの祈り、願いが語られます。「わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし」とあります。パウロは社交事例でこう言っているのではありません。まだ見たことも、会ったこともない、ローマの信徒を思って祈っていたのだと思います。
祈るということは簡単なこと、何でもないことのように思うかもしれませんが、簡単なことではありません。何でもないことではありません。実現すると信じて、信仰を持って祈らなければ、これほど虚しいことはないのです。
「祈っています!ウソ!!本当?」というコラムを読んだことがあります。結構辛辣な内容で「お祈りしています」ということを日本人はよく使いますが、本当に祈っているのだろうか?というのです。続けてクリスチャンも例外ではないのではないか。と問いかけています。そして、いくつかの例を挙げた後、締めくくりとして「『祈っています』という言葉は、挨拶であると同時に私たちクリスチャンにとっては、真実な言葉であります。恐れて、『祈っています』という言葉は使えないと消極的になるのではなく『祈っています』と心から強く告白し、書き、そして、その場で、『主よ』と手を上げて勝利を得て、進もうではありませんか」と書かれていました。
祈りの中で思い起こすことには力があります。思い起こすとは想像していくことでもあると思うのです。ただ漠然とした思いではなく、必ず実現するのです。ただし、私たちの都合に合わせた、私たちの思い通りの実現の仕方とは違う場合もあります。
ここで重要なのは「神の計画」として実現するのだということです。パウロの願い、それは何とかしてローマに行きたいということです。それは単なる好奇心ではなく、ハッキリとした目的がありました。
【ローマ訪問の目的】
パウロの思いの中にはイスパニアへ伝道に行きたいという願いがあったので、そのための拠点としてローマに行きたい思いがあったと思います。しかし、それだけではありません。11節を見ると「あなたがたにぜひ会いたいのは、霊の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです」とあります。
パウロのローマ訪問の第一の目的は、賜物を分かち合い、励まし合う信仰の交わりを深めることでした。賜物とはキリストの体である教会をたてあげるために、神が私たちに与えてくださる多種多様な能力、資質です。決して自分の努力や才能によって手に入れるものではありません。
これは自分自身のためではなく、教会のため、他者の益となるため、お互いに分かち合い、助け合って用いるものです。ですから、パウロがここで「いくらかでも分け与えて、力になりたいのです」と言うと一方的に、強者から弱者へというように聞こえますが、パウロにはそのような気持ちはまったくありません。
続く12節で「互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」と語るように与える側と受ける側ではなく、対等な立場で出会い、励まし合いたいと願っています。賜物は神の恵みによって与えられるものですから、優劣はありません。
賜物を分かち合うとは、相手の賜物を認め、与えられていることを喜び、感謝する。そして、同じように自分に与えられている賜物を認め、喜び、感謝すること、決してねたんだり、うらやんだりするものではありません。
また「互いに励まし合う」ことも実にデリケートな行為だと感じさせられています。励ます側と励まされる側ではなく、お互いに信仰によって、つまり、ヒューマニズムでいい人になろうとするのでなく、聖書の言葉による励ましを求めていくことが大切です。
次に13~15節においてパウロはローマ訪問のもう一つの目的が福音の宣教であると語っています。もちろんローマの教会にはすでに福音が伝わっています。しかしだからと言ってパウロがローマで黙っていることができるでしょうか。そんなことをしたなら、パウロがパウロでなくなってしまいます。やはり福音を語ってこそパウロなのです。
パウロは今までに何回もローマへの旅を計画しましたが、実現しませんでした。計画が挫折すればするほどローマへの思いは強くなっていったようです。そして、その思いは「果たすべき責任」という言葉になって現れています。
この言葉の元々の意味は「負債を負う」ということです。パウロにとっての負債とは何でしょう。それは、罪の奴隷、律法の奴隷であった者が、福音の光に触れ解放されたということなのです。パウロにとってこの救いの体験は自分の人生、価値観、すべてを 180度変えたものでした。だからこそ「わたしの神に感謝します」と語りつづけるのです。
讃 美 新生507 主の手に委ねて 献 金 頌 栄 新生674 父 み子 聖霊の 祝 祷 後 奏