前 奏
招 詞   詩編71編14節
讃 美   新生 87 たたえまつれ 神のみ名を
開会の祈り
讃 美   新生153 エッサイの根より生い出でたる
主の祈り
讃 美   新生180 イエスがこころに
聖 書   ルカによる福音書1章26~38節
                 (新共同訳聖書 新約P100)

「寝耳に水」                    ルカによる福音書1章26~38節

宣教者:富田愛世牧師

【おめでとう?】

 クリスマスの出来事は私たちにとって、とても喜ばしい出来事です。何が喜ばしいのか。それは神のひとり子が誕生し、神が私たちの隣りにいてくださると宣言された、と言っていますが、本当にそうでしょうか。私の中にはそれだけではなく、お祭り気分で、街中が優しく、楽しい雰囲気になる事も、クリスマスを迎える楽しみ、喜びの大きな要素となっています。皆さん、ぶっちゃけどうですか?

しかし、反対にそういう明るい雰囲気、楽しそうな雰囲気だから嫌いだという方もいると思います。人それぞれの感じ方、受け止め方ですから、どれが正しいという事ではないし、どのように感じても自由だと思います。ただ、それらを非難したり、強制したりするのは間違っていると思うので、その点は注意しなければなりません。

今日の聖書箇所であるルカ福音書は、いちばんの当事者であるマリアがどう感じたのか?という事に触れています。

28節を見ると突然、天使がマリアに現れ「おめでとう恵まれた方」と告げました。もし、マリアが信仰深い人で、以前にも神殿などで祈っている時に、天使からのお告げを聞いていたとしたなら、この言葉を冷静に聞けたかもしれません。しかし、聖書にはそういったことは何も書かれていませんから、多分初めての経験だと思います。

マリアは生まれて初めて天使の声を聞いたのですから恐れ、戸惑いました。パニックになったと思います。村の誰かから、天使の声を聞いたというような、そんな話を聞いたことはあるかもしれませんが、現代の私たちと同じように、自分にそんなことが起こるなど想像もしていなかった事が、その身に起こったのです。

神の御業というものは、時としてこのような形で起こるのです。いつでも突然とか、いつでも超自然的という事ではありませんが、このような形で起こることがあると聖書は証言しているのです。

マリアはこの後、結果的には「恵まれた方」と呼ばれるようになるのですが、その時には恐れや戸惑いが勝ってしまうのです。

【神にできないことはない】

 クリスチャンになるか、ならないかという時にネックとなる事柄がいくつかあります。その一つがこの出来事です。十字架で死んでしまったイエスが復活するという事も、信じられない出来事ですが、肉体的な関係が全くなく、一人の女性が聖霊によって身ごもってしまうという出来事を信じるのは「無理」と言っても言い過ぎではありません。

それも、その身ごもった子どもが、将来イスラエルを解放する救い主、メシヤだなどと一体誰が想像したでしょうか。誰にも考え付きもしない出来事が起こってしまったという事なのです。

そもそも、人間に考えつくような事を神が計画したとするなら、それは、それで小さな神になってしまい、それもまた、信じられないというより、信じても意味のない神になってしまうのかもしれません。

マリアは自分の身に起こった出来事でしたが、そんな事は起こりえないと天使に反論しました。34節を見ると「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」とマリアは反論しています。このマリアの言葉の方が、よっぽど理にかなった言葉で、普通の人ならば、マリアの言葉に納得してしまうはずです。

しかし、天使の答えは「神にはできないことは何一つない」ということでした。実はこの天使の答えはとても重要な言葉なのです。人間にはできないことがたくさんあります。そして、その人間が造りだしたというか、想像した神ならば、不可能なことだらけなのです。

それに対して、聖書が語る神という概念は、人間が造りだしたものではなく、人間が神に造られたものだというのです。それだけでなく、すべてのものが、その神によって造られているというのです。

ここに、根本的な神に対する考え方の違いがあるのです。神はどこから来たのかとか、神とは何か、という事ではなく、すべての根源に対して「神」という名を付けているのです。だから「神にはできないことはない」のです。

【わたしは主のはしためです】

 そして、繰り返しますが人間には限界があり、できないことがたくさんあるのです。できないことをどのように処理するかという事を経験の中で学び、それらが常識とか、価値観となって、私たちの行動を規制するようになりました。そういう意味で、私たちの常識や、私たちが経験してきたことは、とても有意義なものです。

しかし、神の計画の前には、何の意味もなくなってしまう時があるということを聖書は語っているのです。それでは、すべてが神の計画の中にあるのだから、人間は何もする必要がないのかと言われることがありますが、そういう事ではありません。ここで大切な事は、人間の計画は完璧ではないし、限界もあり、分からないことの方が、もしかしたら多いという事、それを自覚しなければならないという事なのです。

マリアの答えは謙虚にそれを自覚したものです。マリアは天使の言葉を聞き「わたしは主のはしためです」と答えました。「はしため」という言葉は現代ではほとんど使われない言葉だと思いますが、女の召使いという意味です。

ただ、ここでは天使とマリアの会話が、ほんの数行で語られていますが、現実としては、少し考えさせてくださいという事もあったのではないかと想像します。さらに矛盾するようですが、同時にこれだけ重要なことに関しては、考えても答えは出ない訳ですし、重要だからこそ、瞬時に判断してしまうという事もあると思います。

教会の業、信仰の業には、そういうことが結構あるように思っています。教会の行事計画を綿密に決めていくことは大切です。しかし、その計画に縛られては宣教のチャンスを逃してしまうことがあります。霊的な感性を研ぎ澄まして、そのタイミングを見計らうことはとても大切な事なのです。

マリアはそういった霊的な感性に優れた人だったと思います。そして、神の不思議な計画を目の前にした時、それに対して何の力もない自分を知らされた時、私たちは心からへりくだり「主のはしためです」と答えるというより、答えさせられてしまうという現実に気付くのです。

【恵まれた“私”】

 マリアは救い主の母として「恵まれた方」と呼ばれました。しかし、それはイエスの母だから恵まれただけではありません。イエスが誕生した場面で、天使は羊飼いたちに向かって「民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と語りました。

 イエスの誕生はすべての民に対する、神からの喜びの贈り物なのです。マリアはその母として、一番身近にそのことを実感した一人です。しかし、その喜びは独り占めできるものではなく、人々に分かち合うことによって、さらに大きな喜び、恵みへと変わっていくのです。クリスマスの出来事から2千年経った今、私たちも救い主イエスの誕生によって、喜びの贈り物を受け取った「恵まれた方」と呼ばれる一人になりました。

神が私たち一人ひとりを「恵まれた方」と宣言してくださっている事を自覚しているでしょうか。私たちを取り囲んでいる様々な出来事に、一喜一憂して思い煩ってしまうことが多すぎるのではないでしょうか。

生活の中で疲れることもあります。喜べないこともあります。苦しいこと、悩むことがたくさんあり、それらを無視しろというのではありません。神の恵みという視点から見ていくことが大切なのです。 神は私たちを苦しめようとしているのではありません。祝福し、恵みを与えようとしているのです。神から愛されているのですから、私たちの存在が恵みなのです。その事を自覚した時、マリアのように「主のはしためです」と告白し、徹底してへりくだり、その時には恵みと思えない事だったとしても、神が計画された時が来れば神の恵みとして感謝して受け取れるように変えられるのです。

讃 美   新生151 わが心は あまつ神を
主の晩餐式
献 金   
頌 栄   新生668 みさかえあれ
祝 祷  
後 奏