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「ほこり」 ローマの信徒への手紙3章27~31節
宣教者:富田愛世牧師
【誇り】
今お読みした3章27節以下は「では、人の誇りはどこにあるのか」という言葉から始まっています。今日のテーマは「誇り」ということですが、メッセージのタイトルは、敢えて平仮名で「ほこり」としました。もうお分かりだと思いますが、プライドと言われる「誇り」とダスト、ごみと言われる「埃」の両方に係る内容だと思うのです。
ところで、私たちが生きるために必要なものは何でしょうか。改めて考えてみると、本当に多くのものによって生かされているということを実感します。その必要なものを大きく分けると「物質的」なものと「精神的」なものに分けることができます。物質的なものとは、衣食住に関わるもので、精神的なものには、本能、理性といったものがあり、今日のテーマである「誇り」というものもここに入るものの一つです。
私たちは人間としての誇りを失うと生きていくことが出来ないと言われます。誇りがなければ生きる意欲が失われるそうです。「私にはプライドなんかない」と言う人がいるかもしれませんが、まったく無いわけではないと思います。「これが誇りです」と言わないことが、その人の誇りだったりするわけです。
この場合の誇りは、言い方を変えると尊厳であったり、アイデンティティーと呼ばれるものだったりします。このように考えるなら本当に大切なものだということが実感できると思います。
ここで改めて皆さんに質問したいと思います。皆さんは誇りを持っていますか。3週間前のメッセージでは「あなたの優れた点は何ですか」という質問をしましたが、覚えておられますか。誇りというのは多くの場合、その優れた点を誇るのではないかと思います。
ちなみに私自身は「優れた点はこれです」というのは恥ずかしいのですが「誇りを持っていますか」と質問されれば「持っています」と答えます。私は誇りの固まり、プライドが服を着て歩いてると言われても良いくらいプライド、誇りを持っています。それ故に傲慢になっているのです。
この誇りは必要なものですが、対象や内容によって、無意味なものになったり、滑稽なものに変わったりすることがあります。誰に対して誇るのか。そして、何を誇るのか。この2点は重要です。
【誰に対して】
誇りを持つ時、対象というものが必要になります。何に対して誇るのか。ある時は物に対して誇ることもあるのではないかと思います。
今も行われているのかは分かりませんが、昔、コンピューターと人間の間で行われるチェスの大会がありました。1997年にIBMのスーパーコンピュータ「ディープ・ブルー」がチェスチャンピオン、ガルリ・カスパロフを負かしたことが話題になりました。20年以上前のことですから、最近の人工知能はさらに進んでいるので、人間が勝つのは難しくなっていると思います。勝ち負けのはっきりしている勝負に勝つと、人々から称賛を浴び、誇らしく思うわけです。コンピューターという物に対しても勝利したという誇りを持つわけです。
同じようなことは動物に対しても起こります。しかし、私たちにとってもっと大切なのは人間同士の関係であったり、自分自身に対して誇るということです。「武士は食わねど高楊枝」ということわざがあります。これなどは人間関係に対するプライドであると同時に自分自身に対するプライドでもあります。
しかし、これらのプライドを突きつめていくなら人間同士、つまり他人に対するプライドというものが最後には残るのではないかと思います。誰もいない無人島に武士が流れ着いたとします。それでも楊枝をくわえているでしょうか。
また、誇る対象によっては、その誇りが一瞬にして地に落ちてしまうこともあると思います。勉強にしても、音楽や絵といった芸術の分野でも、スポーツの分野でもそうなのですが、ひとつの共同体の中で優秀だったとしても、より大きな共同体の中では、その優秀さが目立たなくなってしまうことがあります。
私が学生の頃、今から40年位前ですが、今のように情報が多くはない時代のことです。ある地方都市にいた私の知り合いは、小さな頃から野球に打ち込んでいて、野球で有名な高校からスカウトが来るほどでした。しかし、高校に入って野球部に入ると彼のような優秀なメンバーばかりが集まっているので、彼は普通の存在になって今までのプライドが崩れてしまったそうです。今よりも大きな世界に目を向けた時、そういった誇りが崩され大きなショックを受ける人がいるのだと思います。
【何を】
誇る対象と同じように、内容も大切なものとなります。この内容も大きく分けると2つに分けられると思います。一つはもともと持っているもの、人間であるとかユダヤ人である、日本人であるというものです。そしてもう一つは自分の努力によって手に入れたものです。
そのような誇る内容というものが、その人の価値観を表していますし、またその人の価値というものは、何を誇るかという内容によって決まってきてしまうのではないでしょうか。
自分の功績や業績を誇るなら、その人の価値観の中では自分が一番上にいるのです。そして、自分が神になっています。この過ちはクリスチャンの中にもあります。かつて、私が北海道にいた時、私のいた教会を賛美の面で誇っていました。プレイズと言われる賛美をかなり早い時期に取り入れ、若者が集まり、活気のある教会でした。最初からそうだったとは思いませんが、いつからか傲慢な思いになり、他の教会は遅れていて、こちらは最先端を行っていて、これを取り入れた自分に栄光があるように思ってしまいました。
目に見えるものは必ず、いつかは無くなります。同じように、目には見えなくても人が作りだしたものも必ずいつかは無くなるのではないかと思います。例えば、友情はとても大切なもので、尊いものです。しかし、無くなることがあります。人の作った正義は時や状況によって変わってしまいます。努力して築いた平和も無くなってしまうことがあります。
このように自分の努力によって手に入れた誇りというものは永遠には存続しないのです。必ずいつかは無くなってしまいます。もともと持っているものについては無くならないかもしれませんが、先ほど語ったように、誇る対象によっては滑稽なものとなってしまいます。
パウロはここで、律法主義という誇りは、恵みとして与えられる信仰の前に無力となってしまったと語っています。
【埃として】
ユダヤ人クリスチャンたちは誇る対象と内容を間違えてしまいました。自分たちは律法を厳守していると自負して、異邦人や律法を守ることのできないユダヤ人に対して誇っていたのです。この誇りは差別を生みだしました。また、自分の努力によって義と認められると思い違いをし、その義を誇っていました。
このように他人を対象にし、自分の努力を誇るということは、神のみこころと律法に反することであり、神の前に罪となるのです。この様なものは「埃」ダストとしてふり落とさなければなりません。
埃というものはとても小さなものなのですが、私たちの生活に大きな支障をきたします。埃がたまって電気製品が動かなくなることがあります。現代のようなIT時代にとっては一番大きな問題です。埃を放っておくと大変なことになります。
しかし、信仰は何かを否定することではなく、確立させるものだと31節で語っています。パウロは、人の誇りを地に落とし、その人を落ち込ませるために語っているのではありません。誰もが救われる、ただひとつの道があるということを語っているのです。プライドとして必要な誇りまで捨てなさいとパウロは語っているのではなく、ダストとしての埃を捨てなさいと語るのです。
私たちは神の作品です。だからプライドを持って、神の作品としての誇りを持って生きることが大切です。イエスが十字架の上でその尊い血潮を流されたのはなぜですか。それほどまでに神は私たちを愛しておられるのですから、プライドを持っていいのです。
ダストとしての埃とは、律法主義、つまり行為によって救いを得るといった間違った考え方です。律法と律法主義とは違います。律法は神が与えてくださったものであり、救いを得るための下地です。律法がなければ私たちは自分の罪に気付くことが出来ませんでした。ですから律法は宝なのです。
しかし、この宝の上に行為という、律法主義という埃が降り積もっているので、それが宝なのかゴミなのかが分からなくなっていたのです。この宝の上に積もっている埃を取り除いたとき、恵みとしての律法を見いだします。律法が恵みであると気付いた時、守らなければならないものではなくなります。そして、神の与えて下さった恵みであると気付いた時、信仰によって救われるのです。
讃 美 新生514 恵みの主は 献 金 頌 栄 新生671 ものみなたたえよ 祝 祷 後 奏