前 奏
招 詞   創世記15章6節
讃 美   新生  4 来りて歌え
開会の祈り
讃 美   新生576 共に集い
主の祈り
讃 美   新生397 み神を愛する主のしもべは
聖 書   ローマの信徒への手紙4章9~12節
               (新共同訳聖書 新約P278)

「形ではなく」                  ローマの信徒への手紙4章9~12節

宣教者:富田愛世牧師

【この幸い】

 今日の箇所は「では、この幸いは」という言葉で始まっているように、前の節からの続きです。7~8節にある詩篇の聖句はダビデが、その罪を神から赦されたことに対する感謝の詩です。

ダビデはバトシェバの事件で、預言者ナタンから罪の指摘を受けました。そして、自分の罪深さを知り、心から悔やみました。しかし、そんなダビデのことを神は「赦す」とおっしゃいました。

あなたの罪はどこにあるのかと聞かれても「どこかに運ばれていってもうここにはありません。ここにあるけれど隠されています。見えません。だから、私は罪人ではありません」こう答えてよいと言うのです。こんな虫のいい話があっていいのか、と思いますが、パウロはあるというのです。この罪の赦しが、究極的な救いであり、人生最大の幸いだとパウロは語るのです。

 

そして、今日の箇所ではこの幸いは割礼を受けた者だけに与えられるものなのかと問うのです。パウロは答えが分からないから問うているのではありません。このように問うことによって、この手紙を読んでいる読者、また私たちに考えさせているのです。

考えさせたうえで、答えています。その答えは「アブラハムにある」と言うのです。アブラハムはユダヤ人にとって、とても重要な人物です。アブラハムの前には「ユダヤ人」という民族は存在しませんでした。アブラハムがユダヤ人のルーツ、父祖なのです。

アブラハムはどこに行けばよいのか分からないのに、神によって「行け」と言われるままに旅をしました。何の保証もない、目的地すら聞かされていないのに、ただ、神が行けと言ったその言葉に従って「行った」のです。

さらに、高齢で子どもがいなかったにもかかわらず、神から「あなたの子孫は天の星のように増える」という言葉を信じました。常識的に考えるならば「無理」と思えるようなことを「信じた」ことにより、神から義と認められたのです。アブラハムは、その信仰が神によって義と認められた最初の人となりました。それゆえに信仰者の父なのです。

【どのようにして…】

今日の箇所は「割礼」が重要なキーワードになります。ユダヤ人にとって割礼はそのアイデンティティーと深く結びついています。先ほども少し触れましたが、ユダヤ人というのは、始めからユダヤ人として存在していたわけではありません。

アブラハムが神から選ばれ、その子孫がアブラハムと同じように神に従うことによってユダヤ人となっていくのです。創世記17章10節において、アブラハムは神との契約をします。その契約が割礼でした。

割礼を受けることによってユダヤ人となるのです。ですから、ユダヤ人にとって割礼は必要不可欠なものでした。だからこそ彼らは、割礼に頼り、割礼を誇りとしていたのです。

しかし、ここできちんと整理して考えなければならないことは。アブラハムが義と認められたのは、割礼が有るか無いかではなかったということです。アブラハムは割礼を受ける前に、信仰によって神から義と認められています。

創世記15章6節を見ると「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と書かれています。割礼を受けたから義と認められたとは書かれていません。そして、17章10節で「あなたたち、およびあなたの後に続く子孫と、わたしとの間で守るべき契約はこれである。すなわち、あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける」とあります。

15章6節で義と認められましたが16章に入ると妻サライに子どもが生まれなかったので女奴隷のハガルを側女にし、イシュマエルが生まれました。その時アブラハムは86歳だったと16章16節に記録されています。そして17章1節で「アブラムが九十九歳になった時」とあり、その後17章10節で割礼という契約が交わされるわけですから、その間に、約14年の歳月が流れています。この14年間アブラハムは義と認められなかったのでしょうか。そんなことはありません。この割礼のない14年間も、アブラハムは義と認められていたのです。

【割礼の印】

11節を見ると「アブラハムは、割礼を受ける前に信仰によって義とされた証しとして、割礼の印を受けたのです」とあります。アブラハムが受けた割礼は「印」であって、そのものが目的や救いにいたる方法ではありません。

これを聞くと、教会の中にある「礼典」にも似たところがあるように思えます。私たちが守っている「礼典」はバプテスマと主の晩餐です。どちらも大切なものですが、救いに直接かかわるものではありません。

私たちが救われるのはバプテスマを受けたからですか。そうではありません。信仰告白によるのです。「イエス・キリストを私の救い主と信じます」という信仰の告白によって救われるのです。そしてバプテスマは、信仰者が神の家族として加わるべき、キリストの体なる教会の一員となるための「印」です。

また、主の晩餐式も、そこで配られるパンと杯、そのものには何の力も効力もありません。イエスがその食卓に人々を招いたことを記念し、思い起こすことが大切なのです。私の罪の身代わりとなって、その体を十字架につけ、尊い血潮を流されたことを思い起こすのです。

どちらも聖書が私たちに「それを守れ」と命じているから守らなければならないし、信仰生活をおくる上で大切なもの、必要なものですが、それを守ることが目的になったり、バプテスマによって救われるという、救いの方法ではないのです。

割礼も同じように、ユダヤ人のアイデンティティーとして大切なものですし、神との契約の中で、守らなければならない重要なものですが、あくまでも印であるということを忘れてはならないのです。大切だけど、第一のものではありません。

アブラハムが割礼の無いまま義と認められたということは、割礼のないまま信じる、すべての人の父となるためだったのです。シュラッターという神学者はこのように語っています。「アブラハム自身は割礼なしに、信仰によってのみ義とされた最初の異邦人であった」アブラハムはユダヤ人だと思っている人が大いと思いますが、アブラハムは神との契約によって割礼を受け、ユダヤ人になったのであって義と認められた時は、割礼を受けていない異邦人だったのです。この事実は私たちにとって大きな慰めであり、励ましだと思います。

【割礼を受けた者の父】

パウロはこの手紙でユダヤ人クリスチャンに対して厳しい言葉を発していますが、ユダヤ人と異邦人を対立関係に置こうとしているのではありません。異邦人は異邦人のまま、ユダヤ人はユダヤ人のまま救いに招かれていることを語っています。

ですから、アブラハムの割礼も意味のないものだとは言わず、必要なものと認めています。そこには神の計画がありました。割礼のないまま信じる者の父であると同時に、割礼を守るユダヤ人の信仰の父となることも神の計画だったのです。

12節の後半に「割礼以前に持っていた信仰」という言葉が出てきます。割礼以前ということですから、異邦人にもユダヤ人にも当てはまるのです。これによってアブラハムはユダヤ人にも、異邦人にも等しく信仰の父となったのです。アブラハムを父と仰ぐ者は、割礼を受けていようが、受けていまいが、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、アブラハムの子となるのです。

ただし、形だけの割礼ではなく、アブラハムの信仰を模範として従う人々の父ともなったと言われるように、その信仰を受け継ぐ者でなければ胸を張って、アブラハムを信仰の父とは呼べないのではないでしょうか。そして、その信仰を受け継ぐということは、決して難しいことではありません。アブラハムも神を信頼していましたが、時には疑うこともあり、失敗することもあったのです。それで構わないのです。

パウロはガラテヤ3章7節で「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」と語ります。また同じ3章28節では「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と語ります。神の救いと恵みは分け隔てることなく、そして、神は完璧を求めるのでもなく、信じる者、すべてに与えられるのです。

讃 美   新生519 信仰こそ旅路を
献 金   
頌 栄   新生671 ものみなたたえよ
祝 祷  
後 奏