前 奏
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主の祈り
讃 美   新生229 十字架のもとは
聖 書   ローマの信徒への手紙4章13~17節
                 (新共同訳聖書 新約P278)

「約束」                      ローマの信徒への手紙4章13~17節

宣教者:富田愛世牧師

【約束】

 聖書の中には重要な意味を含む言葉がたくさん出てきます。キーワードと呼ばれるものですが、その一つに「約束」という言葉があります。約束という言葉を私たちは、それぞれの生活のなかでよく使いますが、あらためて、どういう意味だろうと問われると説明しにくいのではないかと思います。

私も辞書で調べてみました。そこには「ある物事について、将来にわたって取り決めること」とありました。私たちの社会生活においてこの約束がなければ、様々なところに支障がおこると思います。

例えば、レストランに行く時、前もって予約を入れることがあります。何月何日の何時に何名で行きますので席を取っておいてくださいと言って予約するわけです。これはレストランと私との間の約束です。この約束にはお互いの信頼関係がなければなりません。予約したけど大丈夫かな、信用できるかな、当日行ってみなければ分からない、などと言っていては、事が運ばないわけです。

このように、約束というものはお互いの信頼関係のうえに成り立つものです。信頼関係がまったくなければ、約束はできないし、そのような約束が出来なければ、社会生活は円滑に進まないわけです。

 今日の箇所はローマの信徒への手紙の中で、はじめて「約束」という言葉が登場するところです。そして、聖書全体を見るとき、この約束という言葉が具体的に出てこなかったとしても、一つの大きな約束の上に成り立っているのです。

旧約聖書とか新約聖書という名前も古い契約と新しい契約という意味を持っています。日本語の契約というのは法律用語から来ているものですが、ヘブル語においては、「束縛」という意味が元々の意味なのです。一定の約束の元に両者が束縛されること、両者によって取り決めていくことなのです。この両者というのは神と人間なのです。ですからユダヤ人は契約の民と言われるのです。

【最初の約束】

神と人間との最初の約束は、創世記2章16~17節に出てきます。天地創造のはじめに人間がエデンの園に住んでいたときのものです。そこには「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」という言葉があります。これは神の命令であり神と人との最初の約束です。

この約束は守ることが難しい約束でしょうか。何も難しいことは言っていません。「すべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」たった一つだけ「善悪の知識の木からは食べてはいけない」というものでした。

エデンの園にどれくらいの木があったのかは分かりませんが、2、3本ということはありません。何十種類、何百種類ある中の1本だったのです。しかし、人はこの最初の約束を破ってしまうのです。

もちろんサタンに誘惑されたのだから、と言い訳をする事が出来るかも知れませんが、サタンの誘惑の言葉は神の言葉とまったく反対でした。神は「食べていい。食べなさい」と語っているのにサタンは「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と言っているのです。この言葉に惑わされて約束を破ってしまうのです。

また、具体的に約束という言葉ではありませんが、契約という言葉が最初に出てくるのは、ノアの洪水の物語です。地上の人間が悪いことばかりを思っていることに、心を痛めた神はノアとその家族を選び、箱舟を作らせ、ノア以外の人間を洪水によって滅ぼしました。

そして、洪水の水が引いたあとノアと約束をしているのです。創世記9章11節に「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」とあります。

ここにはじめて、神と人間との具体的な契約が交わされるのです。しかし、人間同士の契約においては「一定の約束のもとに両者が束縛され」るのですが、神の契約は神が一方的に「滅ぼさない」という束縛を受けていて、人間のほうには何の束縛もないのです。滅ぼされないために、こうしなさいとか、ああしなさいという言葉、条件はまったくないのです。これが神が与えられる約束なのです。

【神の約束】

その後、神はアブラハムとの約束や律法による約束を人間との間に結ばれました。神の性質の一つに「義」ということがありますが、神は「義」なるお方なので、誠実にそれらの約束を守られました。約束を守ということで、神の「義」を示されるのです。当たり前のことだと思われるかもしれませんが、必ずしも当たり前のことではありません。

約束を守ということは正しいことです。反対に約束を守らないということは正しくないこと、不正なのです。私たちは人間同士の約束において正しい行いをしているでしょうか。時間と共に忘れ去られていく約束が本当に多いのではないかと思います。

神との間にある約束についても同じだと思います。人間は常にその約束を破り続けているのです。聖書の中に「神の怒り」というものが出てきますが、この怒りもまた、神が誠実に約束を守っておられる態度を表しているのです。

約束を守らない不正に対して断固とした態度をとられること、怒りを表されることは神の「義」であり、神が約束を誠実に守られるからなのです。

ノアの洪水によって、ノアの家族以外の人間は滅びました。しかし、神の祝福によってノアの家族は繁栄し、地に満ちていきました。人は集団になることによって一人では持ち得ない、大きな力を発揮します。そして、この力は良い方向にも、悪い方向にも進みます。

ノアの洪水の後、またしても人は傲慢になりました。創世記11章を見るとバベルの塔の物語が出てきます。集団となった人は、大きな力を手に入れ、天にまで届くような高い塔を作り、神に近づこうとしました。自分たちの力を世界に見せつけ、神に成り代わろうとしたわけです。それを見た神はどうされたでしょうか。もし私が神の立場だったとすれば、滅ぼしてやろうと思うはずです。しかし、神はノアと交わした約束どおり、人を滅ぼすことはしませんでした。ただ、話す言葉を乱し、全地に散らすだけでした。

神は約束を大切にされ、約束を守られるお方なのです。

【人の愚かさ】

人の愚かさとは、すぐに傲慢になること、調子に乗ってしまうことです。ですから、与えられた律法を守ることが出来るように錯覚してしまいました。律法の行ない、それも上辺だけの行いを守ることによって、神との約束を守っていると勘違いしてしまうのです。しかし、人は約束を守ることが出来ないので「義」とはなれません。

約束を守ることのできない不誠実な者に対して、神はノアとの約束を守り滅ぼすことはなさいませんでした。それどころか、創世記12章において、今度はアブラハムを選び「あなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と約束されました。

アブラハムはこの約束を信じ、旅に出、さらに神から信仰によって「義」と認められるようになりました。神はアブラハムとの約束の故に人の罪を赦す決断をされるのです。

この約束は13節の後半を見ると「律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです」とあります。神の約束というのは人間に何かを求める約束ではありません。神によって赦されるというのは守ることの出来ない約束を守りなさいとか、何かをしなければならないという条件はまったくありません。

一方的な恵みとして、罪の赦しが与えられるのです。このように聞くと、先週の箇所と同じように「なんて虫のいい話だろう」と思うでしょう。虫がよすぎて裏があるのではないかと疑いたくなるほどです。これを聞いて皆さんはどう思うでしょう。これを聞いて感謝だと思える人は罪人です。約束を守れない不誠実な罪人だからこの虫のいい話しに感謝できるのです。

また、この話を聞いて不公平だと思う人がいるでしょうか。その人は高ぶった思いを持っている、傲慢な罪人なのです。あるいは自分が正しいと思っている勘違い人間です。

私たちには決断が求められています。律法や行いではなく、ただイエスを信じる信仰によってのみ、救われるという、罪を赦していただけるという、聖書の言葉を信じるか、拒否するか。

讃 美   新生532 神はわがやぐら
主の晩餐
献 金   
頌 栄   新生673 救い主 み子と
祝 祷  
後 奏