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「同情の涙」 ルカによる福音書23章26~43節
宣教者:富田愛世牧師
【安っぽい同情】
キリスト教には教会暦と呼ばれる暦があります。バプテスト教会ではあまり重要視されませんが、伝統に則った教会では非常に大切にされています。今年は3月2日の水曜日が「灰の水曜日」と呼ばれる日で、この日からレントと呼ばれる受難節が始まりました。
受難節はイースター前の46日間を指し、日曜日を除く40日間が悔い改めと、断食、祈りの期間とされてきました。その最後の1週間が受難週と呼ばれています。
今日から受難週が始まりますので、礼拝メッセージも続けてきたローマの信徒への手紙ではなく、福音書から見ていきたいと思いました。そして、今回導かれた箇所はルカによる福音書23章26節から、少し長くなりましたが43節までを読んでいただきました。
イエスの十字架は当時の人々の中で、どれくらい大きな話題だったのかは分かりませんが、同じルカ福音書24章13節以下に二人の弟子がエマオという町に行く途中で復活のイエスに出会った記事があり、18節に「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけご存じなかったのですか」という言葉が記録されています。
ここから分かることはイエスの裁判から十字架に至るまでの一連の出来事はエルサレム中の話題となり、大勢の人がイエスの十字架を見物に来ていたようです。
28節を見ると大勢の人たちの中には女性もたくさんいたようです。そしてイエスは女性たちに向かって「わたしのために泣くな」と語りました。集まっていた女性たちの多くは「怖いもの見たさ」的な感覚でついてきていたのではないかと思います。そして、実際にその残酷な刑の故に涙を流していたようです。
しかし、その涙は単なる同情の涙だったのです。もちろん同情することは悪いことではありません。しかし、同情とは自分が優位に立つ時に起こる感情で、可哀相な人、哀れな人に対するものなのです。
イエスはそれに対して、神の前に本当に哀れな存在はどちらなのかを問うているのです。
【救ってみろ】
32節からは、そこにいた民衆や兵士たちの反応が記録されています。今、こうして教会の礼拝の中で聖書を読んでいる私たちにとって彼らの反応は非情なもののように感じるかもしれません。しかし、当時の人々の背景を想像するなら、特別、非情なものではなく普通の反応だったかもしれません。
神殿中心の宗教観が支配している社会の中で、また、パクスロマーナと呼ばれるローマ帝国の支配の中で生活している人々にとって、祭司や律法学者たちは正しい人たちでした。また、ローマ帝国の役人たちに対しては「正しい人」という認識は低かったと思いますが、逆らうわけにはいかない人々、言うとおりにしていれば安全を提供してくれる人々だったと思われます。
ですから祭司や律法学者たちによって罪に定められ、ローマ帝国からも政治犯としてのレッテルを張られた男に対して、期待を裏切られたような怒りと同情の入り混じった複雑な感情を抱いていたのではないでしょうか。
人々の病をいやし、悪霊から解放したイエスですから、十字架に磔にされるのを黙って受け入れるのではなく、そこから降りてきて、自分を救えと叫びたくなる気持ちは当然だと思います。
39節からは二人の犯罪人の反応の仕方が対称的に記録されています。一人はそこにいた民衆や兵士たちと同じように、自分を救い、我々を救ってみろと叫ぶのです。
民衆も、兵士も、一人の犯罪人も、それぞれ「救ってみろ」と叫んでいますが、この「救い」とは何を指しているのでしょうか。
それは、今、目の前にある苦しみから解放されることだけであり、その苦しみの意味を理解しようとはしないのです。なぜ、こんな苦しみに合い、そこにどのような主の計画があるのかを考えなければ、今の苦しみから解放されたとしても、また、同じ苦しみに合い、何の解決も与えられないのです。
【報い】
しかし、もう一人の犯罪人の反応は違っていました。彼は自分の犯した罪に対する当然の報いを、自分は受けているのだと語っています。
ただ、私は個人的にこの箇所については疑問を持っています。というのは、当時の十字架刑というのは、ローマ帝国が政治犯に対して行う、見せしめ的で残虐な刑罰だったといわれています。
帝国主義的な支配体系の中で、それに反対することは、一方においては犯罪かもしれませんが、歴史を振り返る中で考えるなら、死に値するようなものではないのではないでしょうか。
もちろん、だからと言って聖書の言葉を書き換える必要はありませんし、間違いだと言うつもりもありません。ただ、解釈する時に注意しなければならないことかなと思っています。
そのような思いを頭の片隅において、もう一度読むと、ここで大切なことは、この「もう一人」の犯罪人の反応なのです。彼は自分の犯した罪に対する当然の報いを受けているだけだと語ります。
どのような罪なのかについて、聖書は何も触れていませんが、社会的な罰を受けるのは当然のことであると、彼自身、受け止めているということです。しかし、イエスに対しては「この方は何も悪いことをしていない」と語っているのです。
もしかすると、十字架を見に来ていた人の中にも、彼と同じように思っていた人がいたかもしれません。しかし、口に出したのは「もう一人の犯罪人」だけでした。
彼は続けて「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と語ります。あなたが御国に入る時ではなく「あなたの御国に」と語っています。つまり、彼はイエスが御国に属する方であることを理解していたのです。これは彼の信仰告白でもあるのです。そして「救ってください」ではなく「思い出してください」という謙虚な姿勢を見ることができるのです。
彼は社会的な罰を受けますが、神の裁きではありません。つまり、この犯罪人は、本当は十字架に架かるような罪は犯していなかったにも関わらず、その時代の為政者たちによって十字架刑に処せられてしまった。しかし、神はそのことをご存じだった。ですから彼は十字架刑には処せられたが、神の裁きの前では、イエスと共に楽園にいるということなのではないでしょうか。
【彼らをお赦しください】
イエスに悪態をついていた犯罪人はどうなったのでしょうか。私たちはすぐにこのような疑問を持つと思います。しかし、聖書には何も書かれていません。神の裁きに委ねるしかありませんし、それに対して私たちが何かできるわけでもありません。
ところが、イエスは、ご自分に向かって悪態をついたような、そんな男に対しても「彼らをお赦しください」と祈られたのです。
この言葉は34節に書かれていて、皆さんの聖書でもカッコ付けになっていると思います。古い写本には省かれているものもあるということで、この言葉を福音書に入れるかどうか議論され、一部の神学者は反対の立場をとっているということです。
その理由の一つに「彼ら」という言葉が誰を指しているのか、曖昧過ぎるということです。しかし、曖昧だということは特定していないということで、神の憐れみという文脈から考えるならば、そこにいたすべての人と捉えても構わないのではないでしょうか。
そして、そこには時間的な限定さえも取り払ってしまうような豊かさが流れているように感じます。また、この言葉はイエスが語ったというだけでなく、イエスの祈りでもあったと思うのです。
つまり、この祈りはその場にいて、イエスに悪態をついた人達に向けられているだけではなく、今も私たちに対する執り成しの祈りとして続いているのです。
十字架の出来事は、今から2千年前の、昔の出来事かもしれませんが、過ぎ去った出来事ではなく、今も続いている出来事として、受け止めなければならないのです。そして、私たちはこの十字架の周りにいる、どんな人に自分を照らし合わせるでしょうか。
安っぽい同情をする女性達、悪態をつく男達、イエスに自分を委ねる犯罪人、誰が良いとか、悪いとか、そんなことは関係ありません。いずれにしても、一歩踏み出さなければ滅びるばかりの人間なのです。
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