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「律法の功罪」 ローマの信徒への手紙5章20~21節
宣教者:富田愛世牧師
【律法と恵み】
今日のタイトルは「律法の功罪」としました。ちょっと誤解されそうなタイトルだと思っていますが、どうでしょうか。皆さんはこのタイトルを見てどのような印象を受けられたでしょうか。この文字をそのまま受け取るならば、律法には良い点と悪い点とがあるように感じられると思います。
今日の箇所でパウロは「律法と恵み」ということを対比させ、話を展開していこうとしています。しかし、律法そのものに悪い点があるというのではありません。律法は神が人間に与えてくださったものですから、悪いものではありません。しかし、人間がそれを用いるときに、その用い方を間違えたために、逆効果になってしまった部分があるのです。
律法の基礎となるものは、モーセの十戒です。この十戒はイスラエルの民がエジプトから脱出し、荒野をさまよっているときに与えられたものです。そして、私たちはすぐにこの順序を間違えてしまうのです。
まず始めに、イスラエルの民はエジプトで奴隷の生活をしていました。辛い奴隷としての生活の中で、民は神に解放してくださるように祈り求めました。その祈りが聴かれ、モーセを通してエジプトの奴隷生活から解放され、カナンという約束の地に向かって脱出するわけです。
神に解放された者、エジプトから救い出された民に与えられたものが「十戒」なのです。十戒を守れば、解放してもらえる、エジプトから救い出してもらえるというのではなく、すでに解放された者、救い出された者が神に応える民となるために与えられた戒めが十戒なのです。
それがいつの間にか、人間の考えによって、十戒を守ることによって救われるというように、誤解されるようになってしまいました。順番が逆になってしまったのです。これによって律法は本来の目的とは違ったものとして人々の生活の中に入ってしまったのです。律法そのものに悪い点があるのではなく、律法を解釈する人間の間違った解釈によって、悪い点が出てきてしまったのです。
【律法の役割】
さて、この20節は13節を受けて律法の役割について書かれています。律法にはどのような役割があるのでしょうか。関田寛雄という先生は3つの役割があると言っています。
第一は「罪を顕在化すること」つまり、目には見えない罪を具体的なものとしてあらわすことです。殺すこと、奪うこと、嘘をつくこと等のようにハッキリと分からせることが出来るようにするのが律法の役割だというのです。13節ではこの事をハッキリと語っています。
第二は「意識的に律法に逆らうことをさせること」です。人間の罪深い性格の中には、規則があるとそれを破ってみたくなる誘惑があります。反抗期と呼ばれる時期には、このような誘惑に揺さぶられてしまう経験を皆さんもしたことがあるのではないかと思います。
第三は「律法を利用する罪を加えること」です。律法主義というのがこの代表ではないかと思います。
2000年のアメリカ映画で「ショコラ」という映画を昔観ました。この映画の舞台はフランスの保守的な田舎町でした。フランスですから村の中心にはカトリック教会があり、村人はほぼ全員クリスチャンで敬虔な信仰生活を送っていたのです。そんな村に突然、母と娘という一組の家族が引っ越してきて、チョコレート屋を開くのです。
この村の村長は敬虔なクリスチャンで教会の執事でした。新しく引っ越してきた親子のところに来て、ミサへの出席を勧め、村のしきたりを教えるのです。しかし、この親子はそのような親切な助言に耳を貸さず、思うままに生活し始めるのです。ほとんどの村人は、そのチョコレート屋に嫌悪感を持つのですが、変わり者や除け者にされている人、悩みを持つ人がチョコレートを買いに来てはショコラティエと話を交わす中で元気をもらって帰るのです。そして、村長の反感を買うのです。
最後には、神父がミサのなかで「甘いチョコレートの誘惑に落ちないように」というような説教までしてしまうのです。村長の守ろうとしている秩序や正しさが、実は「律法を利用する罪」なのです。自分が正しいと主張するとき「律法を利用する罪」を犯してしまうのです。
【恵みの豊かさ】
パウロは「罪が増し加わるために律法が入り込んできた」と語ります。しかし、これは「恵み」を味わうために罪があるということではありません。「辛いことがあるから喜ぶことが出来る」と言われることがあります。辛い経験をした時の事を思えば、今の出来事は何でもないことのように思え、喜べるよ、というのです。
このような考え方、発想の転換も私たちの生活のなかでは必要かもしれません。ある時には役に立つかも知れません。しかし、この喜びというのは、積極的な喜びではなく、消極的な喜びだと思います。
この言葉が正しいのか、間違っているのか、私には分かりません。しかし、パウロがここで語ることはそれとはまったく違ったことです。聖書の語る恵みとは罪と比較したもの、相対的なものではないのです。恵みを際立たせるために罪があるのではないのです。
消極的な恵みではなく、積極的な恵みなのです。そして、神の恵みとは、神に逆らう者、罪人に対しても恵みとして注がれるのです。
20節の後半に「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」とあります。罪が増し加わることによって恵みが優位にたつことを表しています。
私たちの生活のなかで「罪」というものは、どんどん増えていくのです。これはどうしようもないことで、事実です。しかし「恵み」というものは、罪の増え方とは違うのです。「なおいっそう満ちあふれる」のです。15節で「恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれる」とありました。この「豊かに注がれる」という言葉は「満ち溢れる」とか「有り余る」という意味があると言いましたが、ここでは同じ言葉に「なおいっそう」という言葉を付け加えて書かれています。
恵みとは罪とは比較にならないほど大きなもの、豊かなものであることをパウロは何とかして伝えようとしているのです。パウロはここで言葉の限界を感じていたのではないかと思います。
罪の中にいたパウロは、神の恵みによって引き上げられました。律法によって罪が入り込んできたということを、律法の専門家として、律法を厳守する者としてパウロは実感し、限界をも感じていたと思います。人間の力ではどうにもならないことが、神の恵みの豊かさによって解決された。それを実感してきたパウロだからこそ言える言葉であり、言い尽くすことの出来ないパウロがここにいるのではないでしょうか。
【新しい歴史】
21節では「罪の死による支配」と「恵みの義による支配」が対比して書かれています。罪の支配による結末は「死」です。しかし、神の恵みが支配すれば、私たちは神から義と認められます。そして、この恵みの支配は「主イエス・キリストを通して永遠の命へと導く」のです。単純に死にとって代わるのではなく、永遠の命を得させることを主張するのです。
イエス・キリストというお方は、私たちにとって新しい仲介者として、与えられているのです。ここに新しい歴史の始まりがあるのです。古い歴史は律法によって支配されていました。それも、神の意図しておられたものとは違ってしまい、人間の罪深い思いによって、ねじ曲げられた律法の支配でした。しかし、新しい歴史は律法に支配されるのではなく、イエス・キリストによって支配されるのです。
イエス・キリストが支配するとき、そこに住む者たちは、イエス・キリストをその模範とします。イエスの行ないに見倣う者が、イエスに従う者なのです。
昔から日本の教会では仏式の葬儀に参列した時、焼香をするか、しないか、という話題が出ます。日本という異教社会に住むクリスチャンにとっては難しい問題です。これといった明確な答えを出すことは非常に難しいことです。私自身は、当然のこととして「神以外のものを拝んではいけない」から焼香すべきではないと考えていました。しかし、ある時、本当にそうなのかな。という疑問を持ちました。
私自身、律法主義に凝り固まった考え方をしているからではないかと思ったのです。そして、もしイエスがその場にいたらどうしただろうかと考えたのです。
そこには、愛する肉親を失って、悲しみや寂しさにうちひしがれている人がいるのです。慰めを必要としている人がいるのです。それでもなお「私はクリスチャンですから」と言って、焼香を拒否するイエスの姿を私は想像できませんでした。
悲しむ者と共に悲しむため焼香をしたと思いました。もちろん「焼香しなさい」とここで勧めているわけではありません。ただイエスならどうするだろうか。と考えることが必要ではないかと思うのです。
律法主義として律法を捉えるのではなく、恵みとして捉え、その完成者としてのイエスを見るとき、律法主義という呪縛から解放され、新しい福音に生きることが出来るのです。
讃 美 新生525 主によりて足れり 献 金 頌 栄 新生669 みさかえあれ(B) 祝 祷 後 奏