聖書  イザヤ 30:18  宣教題 主を待ち望む  説教者 中田義直

私たちは今、アドベントの時を歩んでいます。アドベントの語源はラテン語の「アドベニオー」で、「来る」という意味の言葉です。そして、アドベニオーの完了形がアドベントだそうです。ですからアドベントというのは、「すでに来た」、「もう来ている」という意味だそうです。カトリックの神父、山本量太郎さんという方がブログの中でそう説明しておられました。そして、この完了形のアドベントという言葉が、イエス様の誕生を待ち望む時をあらわすことについてこう記しておられました。「アドベントは、来ている、到来なのだ。来るか来ないかわからないものを待っているのではない。既に来られた方がいま共におられ、いつの日か必ず再び来られるのを待っているのである。」

「来るか、来ないかわからないものを待っているのではない」というのは、本当に力強い宣言です。二千年前、神の御子イエス様は確かに世に来られたのです。そして、イエス様は十字架の死と復活を通して救いを完成させてくださいました。罪の赦しを与えてくださったのです。

人間の罪、神様の愛と信頼を裏切ったアダムの罪によって、神と人との関係は壊されてしまいました。人は神のようになれるという蛇の誘惑の言葉に負けてしまいました。そして、このような思いは、今も私たちの心の中にあるのです。私たちは、神様が私の願いにこたえてくださることを願います。その思いが強くなるとき、私たちは神に従うことよりも神を従わせることを求めます。そして、神に指図されることを拒み、私の聞きたいことを話してくれる神を求めるのです。

イスラエルの民は、自分たちの罪をあらわにする預言者の言葉を拒み、自分たちの願うことを語ってくれる人を預言者としてもてはやしました。私たちは心に突き刺さる真実よりも、心地よい思いを与えてくれる偽りを求めるのです。人間は弱いものですから、時には夢の世界の中で過ごすことによって、癒され、解放されることを願います。そのような「願い」を否定することはできないでしょう。夢を与えてくれるテーマパークで心の充電をすることは意味のあることでしょう。そして、そこで大切なのは、現実の中に戻り、現実の中を歩みだすことです。ずっと夢の中にとどまるのは現実逃避です。

イザヤの時代、イスラエルは大国アッシリアの脅威の中を歩んでいました。いつアッシリアが攻めてくるかもしれない、そのような恐れの中でイスラエルの指導者たちはエジプトと同盟を結ぶことを選びました。しかし、イザヤをはじめ神に仕える預言者たちは為政者たちのその選択を批判しました。しかし、そのような預言者たちの為政者に対する批判に対して人々はこう言ったとイザヤは記します。「30:10 彼らは先見者に向かって、「見るな」と言い/預言者に向かって/「真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ。30:11 道から離れ、行くべき道をそれ/我々の前でイスラエルの聖なる方について/語ることをやめよ」と言う。

このようなことはいつの時代にも繰り返されてきました。時に為政者たちは自分たちの判断を正当化するために、恐怖をあおります。一方、自分たちの失敗を覆い隠すために「いたずらに恐怖をあおるな」といいます。恐怖をあおったり、時には甘い言葉で誘惑します。そのような言葉と情報の中で私たちの心は揺さぶられます。だから私たちは、心を静かにして立ち止まるときが必要です。立ち止まり、自分自身を取り戻し、偏見や思い込み、そして、心をゆがめる自分の欲から解放される時が必要なのです。

礼拝は神様の前に立つときです。神様の前に立つというのは、等身大の自分になるということです。日々の生活の中で、私たちは、自分を守るために自分を大きく見せようとするときがあります。大きな声や乱暴な物言いで威嚇したり、いろいろな工夫をして欠点を隠します。また、その逆に、人から嫌味を言われないように、また、敵を作らないように自分を押し殺して、首をすくめながら生きる、そんな生活を強いられることがあるでしょう。しかし、神様の目に立つというのは、私の事実を知っている方、等身大の私を知っている方の前に立つということだからです。

さて、神様の言葉を拒み、エジプトとの同盟を結んだイスラエルの民に厳しい言葉を語った神様は、しかし、イザヤにこのような言葉を託されました。

「30:18 それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」

主なる神様は、私たちを招き続けてくださいます。何度も背く私たちを、しかし、見捨てることなく招き続けておられるのです。そして、私たちはすでに来られた方を、来るか来ないかわからない方ではなくすでに来られた救い主を待ち望みます。そしてその方は、救いと赦しを完成させてくださいました。ゆるしてくださるのか、ゆるさないのかがわからない方ではありません。救ってくださるのかどうかがわからないような方でもありません。私たちを愛し、ゆるし、救ってくださった方を私たちは待ち望みます。

「30:18 それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」

-祈り-

主なる神様、あなたの導きの中でここに呼び集められ、共に礼拝を捧げる幸いに感謝いたします。

主よ、あなたは私たちの救い、罪から解放してくださるために御子イエス様を世にお送りくださいました。そして、愛をもって赦しと救いを完成させてくださいました。今、私たちはあなたの愛のうちにあります。あなたは世に来られ、どんなときにも共に歩んでいてくださいます。困難に押しつぶされそうになるとき、悲しみ、苦しみに心が覆われるときも、あなたは私たちに恵みを与えようとしておられます。憐れみを与えようとしておられます。主よ、愛と憐れみに富むあなたがいつもともにいてくださることを見失うことがありませんように。主よ、聖霊の導きを日々私たちにお与えください。

この祈りと願い、主イエス様の御名を通して、あなたの御前にお捧げいたします。アーメン

ー聖書ー イザヤ書30章18節

30:18 それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。