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「古い自分の死」 ローマの信徒への手紙6章5~11節
宣教者:富田愛世牧師
【一体になる】
先週は6章1~4節までを読みましたが、本当は11節までが一つの区切りとなるので、全部読んだほうが良かったかもしれません。ですから、今日お読みした5~11節は内容的に先週の箇所の続きとなります。
木村文太郎という先生はこの5節は「4節の説明である」と、その注解書の中に書いています。つまり、先週と今週は同じ主題を語っているということなのです。そして、パウロはその主題を伝えるために様々な角度から説明しようとしているのです。
先週は「新しい命に生きる」というタイトルをつけ「新しい命」という角度から見ました。そして今日は「古い自分の死」というタイトルを付けました。先週とは正反対の視点から見ていきたいと思っています。
まず5節を読むと、ここでは「キリストと一体」になることが前提として書かれています。私たちは普通にこの言葉を読むならば「一体」というのですから、同じになることをイメージすると思います。日本人はこの「一体」という言葉が好きなのではないかと思っています。最近は少なくなったかもしれませんが、結婚式ではお祝いの言葉の中で「夫婦一体となって仲むつまじく暮らしてください」なんて言われたりします。
複数のものが同じになる、一つになることが「一体となる」ことです。しかし、本当にそんなことがあるのでしょうか。夫婦が一つになれるのか疑問です。パウロはここで「一体」という言葉を用いていますが、始めからこれは「同じになること」「一つになること」を意味しているのでありません。ここで語られる「一体」というのは「似たものとなること」を意味しているのです。
私はここで「一体」という言葉が「似たものになる」という意味を持っているということに安心を覚えます。キリストと同じになる、一つになるということは、観念的には理解できますが、現実として考えた時、荷が重過ぎます。キリストの生涯を見る時、そこには本当に愛と哀れみの姿を見ることが出来ますが、同じ姿になれるかと言われるなら不安と恐れでいっぱいになってしまいます。しかし、パウロは同じになるのではなく、似たものとなるのだと語ります。
【神の裁きと赦し】
それでは、なぜ、私たちはキリストと一体とならなければならないのでしょうか。それは、キリストが神と人間との仲介者だからです。仲介者というのは「二人の間に立って、お互いの便宜をはかる人」と辞書に出ていました。もう少し具体的に説明すると、同じ目的を持っている二人がいるけれどお互いの間には何の関係もなく、直接、関係を持つことが出来ない。そんな二人を引き合わせるのが仲介者です。
神と人間との関係がこれなのです。神と人間は同じ目的を持っています。それは「祝福」なのです。神は人間を祝福したいと願っています。人間は祝福が欲しいと願っています。しかし、ここに一つの大きな問題が発生したのです。それが「罪」の問題なのです。
神は義なるお方です。その義しさのゆえに、罪を見過ごしにはできません。人間の犯した罪に対して、きちんと裁かなければなりません。人間の受けるべき裁きとは、ローマ書6章23節に「罪が支払う報酬は死です」と書かれています。罪の裁きは「死」なのです。
この死とは時間がたてば訪れる肉体的な死ではなく、永遠の死、つまり、肉体だけではなく、魂の死を意味しています。これくらい罪というものは恐ろしいものなのです。甘く見てはいけないものなのです。徹底して裁かれなければならないものなのです。
教会の中で裁きという言葉が語られる時、同時に赦しという言葉も語られます。その時に間違えてはいけないのは順番です。傷ついた人に対して赦しなさいという言葉は、二次被害を生むものとなります。そして、赦しなさいと言った方が、第二の加害者になるのです。
人間の罪というのは、人間が神を裏切って、神を傷つけるということです。その神に対して無条件に赦してくださいと言ってはいけないのです。そして、神はしっかりと加害者である人間に怒りをぶつけなければならないのです。
自分自身の被害者性をしっかりと主張したうえで、次の段階へと進まなければなりません。義しさを貫くということは、このような厳しさを持っている、そして、この厳しさが必要なのだと思うのです。なぜならこの厳しさは愛から出ているからなのです。その関係性の中に愛がなければ傷つくこともなかったのですから。
【古い自分の死】
人間は神からの厳しい裁きに耐えることができません。もし神からの裁きを受けるとしたならば、すべての人間は最終的に滅んでしまうのです。そこで必要になるのが仲介者であるキリストなのです。キリストが私たちの受けなければならない刑罰を受けてくださったという事実が聖書に書かれています。だから私たちはこのキリストと一体にならなければならないのです。
キリストと一体になるためには、古いからだを十字架につけることが必要です。古いからだとは罪に支配されているからだ、罪の奴隷となっているからだのことです。この古いからだを葬らなければならないのです。
それでは、なぜ十字架につけなければならないのでしょうか。もちろんそれはキリストが十字架にかかって死なれたからですが、十字架の死というのは、ただの死ではありません。刑罰としての死なのです。
私たちは自分の中にある罪を甘く見てはいけません。私の罪は、私一人の問題ですむことではないのです。私の罪のゆえに、周りの人々を傷つけることがあります。
肉体的に傷つけてしまうこともあるし、精神的に傷つけてしまうこともあります。さらに傷つけるだけでなく、命を奪ってしまうことも有り得るということです。それは大げさすぎると思うかもしれませんが、そんなことはありません。それくらい罪というものは恐ろしいものなのです。だからその罪に対する刑罰は厳しいものとなるのです。
また、十字架刑というものは、命を奪うだけではありません。肉体的な苦しみにおいても、じわじわと死を待つのですから、他の刑罰より苦しいと思います。そして、なによりも、多くの人の前で見せしめになるということは、精神的に大きな屈辱と苦しみが伴うことなのです。
私たちの持っている罪とは、ただ自分の命を差し出せばいいというようなものではないのです。このような刑罰をイエスは私たちの身代わりとなって、その身に負ってくださったのです。同じにはなれません。しかし、少しでもそこに近づくため、古いからだを十字架につけなければならないのです。
【キリストの復活】
さらに大切なものは悔い改めるということです。悔い改めず、自分の罪を隠してイエスの前に出ることはできません。悔い改めるためには、真剣に自分自身を見つめなおす必要があります。きちんと自分と見つめ合う時、自分の中に巣くっている罪の深さというものに出会うのです。
パウロを攻撃していた律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちの正しさを主張しました。自分の正しさを主張する時、それを証明するために、他の正しくないものと比べなければならなくなります。比べる時点で、私たちは自分を神の座につけ、他の人を裁くという罪に陥ってしまうのです。だから、キリストの十字架において、自分自身の古いからだを葬らなければならないのです。
イエスが私たちの身代わりとなって、かかられた十字架刑は、命を失うことだけを意味するのではありません。地位も名誉も、今まで自分が築いてきたもの、人が誇りとする全てのものを失ってしまうということです。
10節に「キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです」とあります。イエスはただ一度、罪に対して死なれました。旧約にある、神への犠牲は何度も何度も繰り返し行われましたが、イエスの十字架は一度だけです。つまり、完全であった二度と繰り返されないということを意味しているのです。
私たちにとって、罪とは恐ろしく大きな敵です。罪の前には手も足も出ず、ただ恐ろしさに震えるしかありません。しかし、イエス・キリストというお方は、その罪を前にして、完全な勝利者なのです。十字架にかかり、三日目に復活されたということは、その勝利を意味しています。
このキリストと一体となるということは、11節にあるように「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい」と言うことなのです。
キリストにおいて私たちは、罪の支配、罪の奴隷から解放されて生きることが出来るのです。
讃 美 新生541 主は招きたもう 献 金 頌 栄 新生669 みさかえあれ(B) 祝 祷 後 奏