前 奏
招 詞   イザヤ書63章7節
讃 美   新生120 主をたたえよ 力みつる主を
開会の祈り
讃 美   新生431 いつくしみ深き
主の祈り
讃 美   新生426 語りませ主よ
聖 書   ローマの信徒への手紙6章12~14節
               (新共同訳聖書 新約P281)

「恵みの下」                   ローマの信徒への手紙6章12~14節

宣教者:富田愛世牧師

【私たちはどこにいるのか】

 私たちの人生には様々な選択、選び取りがあります。私たちはその選択の中で生きていると言っても言い過ぎではないと思います。そして、私たちには自分の場所や立場というものもあります。この場所や立場というものがハッキリしていないと不安になり揺らいでしまいます。

学校でも会社でも、それぞれに場所や立場があります。学校においては教師と生徒という立場の違いがあるし、それぞれのクラスという場所があるわけです。それによってある程度、秩序が保たれているのでないかと思います。また、それぞれのクラスの中にも「グループ」というものが存在し、どのグループに属するかが、その人のクラスの中での立場に大きく影響を与えるのではないかと思います。

 

学生だけでなく、会社で働いている人にとっては、社内派閥というものが存在し、どの派閥にいれば、出世できるとか、できないとか、そんなことがあるようです。

PTA、町内会、サークル、どこにいっても、このしがらみの中で暮らさなければなりません。もちろん、どこにも属さない一匹狼的な立場を取る人もいますが、それは少数派ではないかと思います。

 そして、このような「場所」は人間にとって必要なものなのです。同じ場所にいる者同士、情報の交換をしたり、助け合ったり、その中でギブアンドテイクの関係を作り上げていき、それぞれに暮らしやすい方法を見つけていくのではないかと思います。

 このような人間同士の関係だけでなく、私たちには神との関係においても似たようなことがあるのです。神との関係において、自分はどの様な立場をとるか、この選択に私たちは迫られているのです。そして、神との関係における場所は、パウロによれば「律法の下」にあるか「恵みの下」にあるかの二つだけだと語るのです。罪の支配か、キリストの支配か、死に向かって歩くのか、命に向かって歩くのか、この二つしかないとパウロは語るのです。

さらに、パウロはここでクリスチャンに向かって「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」とハッキリ告げているのです。キリストの救いに与った者は、恵みの下に招かれたのであって、律法の下には、もういないのだとハッキリ語るのです。

 

【誘惑】

 私たちは恵みの下に立っており、罪の支配から解放されているとパウロは語りますが「本当にそうなのかな」と疑ってしまうことがありませんか。「聖書に書いてあるし、そう言われれば、そんな気もする。でも……」ということがあります。

 

 私自身もそのように思ってしまうことが、少なくありません。罪の支配から解放されているはずなのに、どうして、まだ、迷いの中にいるのだろうかと思うのです。なぜかというと、それは罪の誘惑があるからなのです。

 

罪というものは罪の中、罪の支配の中にいる者に対しては誘惑することがありません。なぜなら、その必要がないからです。安心しているのです。しかし、罪から解放された者に対しては、引き戻そうとして誘惑するのです。ここに罪との闘いというものがあるのです。

 私たちは始めから負けると分かっている闘いはしません。もし、そのような闘いをしたとしても、本気にはなれないように思います。どこか適当にやってしまうのではないでしょうか。

罪に対しても同じなのです。私は弱い、罪人だ。聖書もそう語っているではないか。罪に対して闘ったとしても、どうにもならない、罪に対して勝つことができないと思っていたとするなら、始めから罪と闘う気がしなくなると思います。罪の中に留まってしまうのです。あるいは、闘っているふりをする人がいるかもしれません。勝つ気がないのに「見て、見て、私は闘っています」というポーズをとって適当に闘うようになるのです。

 人が自分の罪深さや弱さ、無力さといったものを自覚することは大切なことです。しかし、そのことだけに注目するなら、それは福音を根本的に誤解していることになるのです。人が自分の弱さを知る方法は、二通りあります。一つは誰かにそれを教わる方法です。もう一つは自分で経験して知るという方法です。教わっていたならそれを経験した時、当てはめて理解することが出来るし、スムーズに対処することが可能だと思います。自分で経験することも、そこまでのプロセスがとても大切なものとして、その人のなかに残るのではないかと思います。

どちらが良い方法なのかは、分かりません。しかし、一番よくないのは、教わったことによって、あきらめてしまうことです。自分は弱いんだ、だからだめなんだ、罪人のままでも仕方ない。このように思うなら、聖書の言葉はその人にとって絶望の言葉となるのです。

【何をしなければならないか】

しかし、聖書は私たちに希望を与えてくれます。アブラハムは、まだ子孫を見ていなかったけれど、神からの約束の言葉を信じました。その言葉が希望の言葉だったのです。人間にとって不可能に思われることを可能にすることが、神には出来ると信じることこそが信仰であり、その希望を語るのが福音なのです。

人間は救いがたい罪人で、どんなにもがいても自分の力で罪の誘惑から抜け出すことができません。時々、このような考えの中で開き直る人がいます。しかし、それはクリスチャンの姿ではないのです。

 マタイ福音書12章43~45節にかけて、興味深い記事がでています。ここには一度人の心から出ていった、汚れた霊が行き場を探すが、見つからず、もう一度元の人のところに戻ると、そこが空き家となっていたので、他の霊を連れて帰ってくるということが書かれています。

福音書の中で、イエスは何度も悪霊に憑かれた人から悪霊を追い出しました。悪霊を追い出された人は、解放され、救われたことで喜ぶのです。しかし、救われて喜ぶだけで、心の中に新しい主人、つまりイエスを迎え入れなければ、とんでもない事が起こるのです。

それは追い出された悪霊が、ほかに居場所を探すけれど見つからなかった場合、元の場所に戻ってくるのです。そして、そこに新しい主人、つまりイエスがいなくて、空き家になっていたなら、他の仲間を連れて戻ってきて、その人の心の状態は前より悪くなるというのです。

イエスによって救われたとしても、ただその喜びに慕って浸っているだけだったならば、すぐに喜びが虚しさに変わり、前よりも悪い状態になってしまうのです。

また、キリストの福音を倫理観や道徳的なものだと勘違いする人がいます。クリスチャンの中にもいると思います。そのような人は自分が清くなること、正しくなることに一生懸命になります。このこと自体は悪いことではないかもしれません。そして、そのように行動することによって、ある程度は成果をおさめることができると思います。

しかし、そこには限界があるのです。自分自身が清く、正しくあること、これが信仰生活の中心的内容だと誤解するならば、私たちは自分の心の中に、新しい主人としてのイエスを迎え入れていないことになるのです。

【新しい主人】

イエスを新しい主人として迎え入れるということは、イエスに服従することなのです。マタイ福音書19章16~22節には、富める青年の話が出ています。ちょっと読んでみましょう。

この青年は「善いこと」が何かを知っていました。律法を守るということは「善いこと」なのです。そして、彼はその善いことを守っていたのです。20節に「そういうことはみな守ってきました」とあります。素晴らしい自信です。傲慢な言葉だと見ることもできます。

しかし、私たちは、自分が何もしていないのに、この青年を「傲慢だ」と言うことはできません。彼はこのように言い切れるだけの努力をしていたのです。この点については私たちも見習わなければなりません。ただ、この青年に一つだけ重要なものが欠けていたのです。

それは、善いことが何かを知っていたけれど、その善いことを命じられた神に出会っていなかったということなのです。この青年は素晴らしい人です。善い人です。社会的な倫理、道徳においては非のうちようのない人、合格者です。しかし、神を見ていないのです。

これが一番大きな問題なのです。イエスに、神に服従するというのは心の中にイエスを、神を迎え入れること、そして、自分自身を神に献げるということなのです。どのように献げるのかは人それぞれですからここで「こうです」とは言えません。

有名な人では、マザーテレサがそうかもしれませんし、ペシャワール会の中村哲さんがそうかもしれません。心の中に住んでくださるイエスに突き動かされ、それぞれの行動を起こしたのだと思います。

私たちには、彼らのような大きなことはできないでしょうが、神の目には大きいとか小さいとか関係ありません。私たちの尺度ではなく、神の尺度に任せ、イエスならどうしただろうかと、少し立ち止まり、足元を見るならば、そこにイエスがおられるのです。

讃 美   新生635 わが命をば(A)
献 金   
頌 栄   新生669 みさかえあれ(B)
祝 祷  
後 奏