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「命をもたらす法則」 ローマの信徒への手紙8章1~11節
宣教者:富田愛世牧師
【一つの結論】
今日から8章に入ります。この8章でパウロが語ろうとしていることの中心は、1節に書かれているように「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」ということです。
なぜなら、次の2節にあるように「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死の法則からあなたを解放したからです」ということなのです。そして、このことは一つの結論的なものでもあります。
7章で語られていたように、私たちは肉の弱さのゆえに、律法を罪から解放するものだと知りながら、正しく用いることができませんでした。正しく用いることができないばかりか、反対に、罪の付け入るスキを律法との間に作ってしまったのです。
前回のところで、私たちが自分の望んでいる善を行うことができず、かえって望まない悪を行ってしまう。しかし、それは私たちが邪悪な存在なのではなく、私たちの内に住んでいる罪のせいなのだということをお話ししました。
これだけを聞くと、私は悪くない。罪が悪いだけだと短絡的な答えを出してしまいそうです。しかし、その罪の誘惑に負けてしまったのは、誰でもない「私」なのです。
イエスは、その宣教活動の初めにサタンの誘惑に合い、それに打ち勝ちました。イエスは私たちに一つの例を示してくださったのではないでしょうか。私たちが信仰生活を送る時、良いこともあれば、良くないこともある。順調に物事が進む時もあれば、先が見えずに行き詰まり、安易な道に行こうとする誘惑や自分だけが良ければという誘惑に陥ることがあるのだよと示してくださったのです。
私たちにも同じようなサタンの誘惑があるのだから、それに対する備えをしておかなければならないのです。ただ、私たちが自分の力だけで、そのような誘惑から身を守ることができるかというと、少し不安が残ります。そこで、サタンの誘惑に打ち勝ったイエスに依り頼むことによって、力を受けて、打ち勝つことができるのです。
【罪と死との法則】
それでは、私たちが、そこから解放されなければならない「罪と死との法則」とは何なのでしょうか。それは罪の支配下で生活し、滅びに向かって歩む道へと向かわせる力なのです。8章では「罪と死の法則」となっていますが、7章では「罪の法則」となっています。
パウロは6章23節で「罪の支払う報酬は死です」と語っています。ここで一つ確認ですが、聖書の語る罪とは、神を神として認めないことです。多くの人は、いわゆる悪いことをイメージするかもしれません。もちろん悪いことも罪ですが、聖書の語る罪は、神を神としないことです。
神を神としないとどうなるのかというと、神ではないものを神としてしまうのです。ある人にとってはお金のような富がそうでしょうし、地位や名誉が神となることもあります。そして、一番厄介なのが、自分を神としてしまうということなのです。自分が神なのだから、自分だけは何をしても構わないと思って行動する。そこに罪の根っこがあるのです。ここからあらゆる罪が生まれるのです。
「罪の支払う報酬は死です」という言葉には続きがあります。そこには「しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」とあるのです。
罪と死との法則の中で、私たちは死ぬべき存在となってしまいましたが、愛の神は、その憐れみによって、私たちには対して救いの道を開かれたのです。それは、神の賜物として、無条件に与えられるものなのです。
この無条件に与えられる神の賜物と呼ばれるものが、8章においては「霊の法則」と呼ばれるものなのです。
【霊の法則】
次に「霊の法則」について考えてみたいと思うのですが、パウロは3章23節で「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」と語ります。しかし、次の24節で「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とあります。
罪を犯した故に、神の栄光を受けられなくなってしまいました。神の栄光とは永遠の命に至る救いです。人は自分の力でこの法則から逃れることはできませんが、神はその愛のゆえに、霊の法則によって罪と死との法則から解放してくださったのです。
そのためにひとり子である、イエスを遣わされました。このイエスは神の子として遣わされましたが、無力な存在として十字架に架かり、私たちの贖いとなられたのです。
十字架に架かった時、人々は「神の子なら、そこから降りて来い。そうしたら信じてやる」とあざけりました。イエスには十字架から降りる力はなかったのでしょうか。もしかしたら、あったかもしれません。そして、敢えて下りなかったのかもしれません。でも、そうだとするなら、十字架の救いは、施しのようなものになってしまいます。
イエスはただの無力な人として、この世に遣わされたのですから、十字架から降りなかったのではなく、降りることができなかったのです。
3節の後半に「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」とあるように、ただの無力な人として、イエスが十字架で死んだことによって、罪が裁かれたのです。
【霊の思い】
このように「罪と死との法則」から解放され「霊の法則」に生きるようになった者はクリスチャンと呼ばれるようになりました。ちなみに「クリスチャン」という言葉は元々、キリストを信じる者たちに対する蔑称のようなものだったそうです。
使徒言行録11章19節以下にアンティオキア教会の記事が記録されています。ステファノという弟子がユダヤ人からの迫害によって殉教した後、キリストを信じる人々は小アジアからギリシア一体に散り散りになりました。そして、各地で信仰共同体が生まれました。
その一つがアンティオキア教会で、26節を見ると「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである。」と書かれています。
5節を見ると「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とあります。私たちは「霊に属すること」を考えているでしょうか。
未だに「肉に属すること」ばかり考えていると言わざるを得ない、愚かな者かもしれません。しかし、ここでも私たちは「べきだ」と考えるような律法主義から解放されなければならないのではないでしょうか。
なぜなら「肉に属すること」とは、神の意思に反する思いを起こさせることです。律法を中心とした「教え」を守ることは悪いことではありませんが、それらを守らなければ、「霊に属すること」ができないということではありません。
律法を守りたいけれど、守れない。そんな弱く、愚かな私ですから、イエスさま、どうぞ助けてください。と祈ることが大切なのではないでしょうか。神が、イエスが求めているのは、そのような謙虚な私たちの姿であり、これが出来ました。あれが出来ましたと、自慢げに報告することではないはずです。
神の前に、イエスの前に、今ある私自身を謙虚に、そして、素直に明け渡していくならば、神の憐れみによって、命と平和への思いが心の中に満ち溢れるようになるのです。
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